* * *
セミナー前日。
赤坂ゆりは、第一印刷の会議室に椅子を並べていた。机の端をそろえ、二十五人分の席を数える。いつもの会議なら壁際へ寄せておく机も、今日は使う。
墨田は前の席に薄いノートを置いた。社員たちが参加者役になり、リハーサルが始まった。
「一応確認ですけど」
ゆりが言った。
「正しい入稿方法を全部覚えてもらう会じゃないですよね」
「今さらそこ確認すんのか」
「大事なので」
「途中で聞け。それを伝える会」
「はい」
墨田が何も書かれていないホワイトボードの前に立つ。ペンのキャップを外したが、まだ書かない。
「では、問題です」
前列に座った営業の若手へ顔を向けた。
「A4チラシです。支給された画像に72ppiと書いてあります。この画像は使えますか」
若手が答える。
「使えない」
「その情報だけでは、まだ決められません」
「え?」
青原が少し身を乗り出す。
墨田は続ける。
「何ピクセルありますか」
「分かりません」
「何センチで使いますか」
「分かりません」
「では、まずそこを確かめる必要がありますね」
墨田は、今度は別の社員を見た。
「RGBは印刷に使えますか」
指された社員が答える。
「ダメ」
「そうとは限りません」
青原が口を開きかける。
墨田が手で止める。
「印刷する設備に合わせて、どこかで色を扱うことになります。ただ、RGBで受けた方がいい仕事もあります。誰が、どの段階で、どの条件に合わせるかが問題です」
墨田はペンを持ち替えた。
「黒文字はK100で作ればいいでしょうか」
「はい」
「場合によります」
「また?」
「小さい黒文字ならK100が基本です。大きい文字や広い黒ベタなら、ほかのインキも足したリッチブラックを使うことがあります。何を、どう刷るかを確認してください」
ゆりが手元に書き込むのを待って、墨田が次を尋ねた。
「金色はCMYKで作れますか」
ゆりが答える。
「金っぽい色なら。でも金属の光沢は出ない。欲しい光り方に合わせて、特色金や箔押しを相談する」
墨田が見る。
「成長した」
「褒めました?」
「一応」
茶屋が言う。
「じゃあ三つ折りの面幅は?」
墨田が答える。
「紙厚と折り方によります」
「正解」
「出題する側を取らないでいただけますか」
会議室に笑いが起きた。茶屋が得意そうに椅子へもたれる。その横で、若手が「72ppi」に引いた取り消し線を、消しゴムで消していた。
ゆりも、自分のメモに「使う大きさ」と書き足した。墨田の答えを覚えようとすると、次の質問で条件が変わる。けれど、何を確かめたのかは、書き留められた。
* * *
外部セミナー当日。
定員は二十五名。受付の緑野が名前を確かめるたび、資料の束が少しずつ低くなった。フリーランスのデザイナー、制作会社や企業広報の担当者。Webを主に手がける人もいれば、専門学校を出て一年目だという人もいる。
ゆりは会場の後ろまで歩いて、スクリーンの文字の大きさを確かめた。机に置かれた筆箱も、開かれたノートも、いつもの社内会議とは違う。自分たちへ何かを聞くために、来てくれた人たちだった。
ゆりが冒頭挨拶をする。
「今日は『印刷事故を減らす入稿セミナー』に来ていただいてありがとうございます」
隣では、墨田が腕を組んでいる。ゆりは資料の表紙から目を上げた。
「講師の墨田一貴さんです。元印刷会社社長で、私が困ったときは、だいたい何でも答えてくれます」
墨田が口を挟む。
「答えられないこともある」
「そうでしたっけ」
「知らないものは知らない」
参加者が少し笑う。
墨田は参加者へ向き直って、続けた。
「その話を今日はします」
ゆりが驚く。
「そこから?」
墨田はホワイトボードに書いた。
『印刷の知識を全部覚える必要はありません。』
書き終える前に、前列の何人かが顔を上げた。ペンを持ったまま、続きがあるのを待っている。
「では、何を覚えていただきたいか」
墨田は二行目を書く。
『いつ、誰に、何を聞くか。』
「印刷は、条件で答えが変わります。ネットで見つけた入稿方法が、そのまま今回の仕事に合うとは限らない。頼む印刷会社の条件を、先に確かめてください」
参加者の一人が手を挙げた。
「じゃあ、マニュアルって意味ないんですか?」
「意味はあります。ただ、地図であって、現場そのものではないんです」
「地図?」
「道は分かります。でも、道路工事をしているかどうかは、現場に聞かないと分かりません」
ゆりが小声で言う。
「今日、例えうまいですね」
「そこ拾わなくていい」
会場が笑った。
* * *
Q&Aが始まった。前列の若いデザイナーが、資料の端を指で押さえながら手を挙げる。
「画像解像度は350ppiあれば大丈夫ですか?」
墨田は、質問した人へ体を向けた。
「何を作られますか」
「A1ポスター」
「どのくらい離れて見るものですか」
「二、三メートル?」
「それなら、全部の画像に350ppi必要とは限りません。近づいて見る人がいるか、細部をどこまで見せたいかでも変わります。ピクセル数と、紙の上で使う大きさを見て決めましょう」
ゆりが補足する。
「数字だけじゃなくて、実際にどう見てもらうか、ですね。FRAMEのポスターのときにも――」
墨田が止める。
「その話はあと。まず、この人のポスター」
「はい」
ゆりは質問した人へ向き直り、置く場所を尋ねた。店先の掲示板だという。通りから眺める人も、近づいて読む人もいる。デザイナーは少し考えて、写真と文字をどう置くつもりか話し始めた。
話が一区切りすると、後ろの席から別の手が挙がった。
「RGBで入稿してもいいんですか?」
墨田が尋ねる。
「色変換は、どなたが担当しますか」
「印刷会社?」
「その会社がRGBで受ける条件を決めているなら、大丈夫です。CMYK指定なら、指定された条件で変換します。誰が変換して、どこで色を確かめるか。そこを合わせておきましょう」
青原が後ろから補足した。
「画面と印刷では表現できる色の範囲が違います。プロファイルという、色を扱うための情報も関係します。詳細は資料の十二ページ以降に――」
墨田が、上がりかけた手に目を留めた。
「詳しいところは、あとで資料をご覧ください。では、次の方、どうぞ」
青原はうなずき、十二ページに挟んだ付箋を少しだけ外へ出した。
通路側の参加者が尋ねた。
「塗り足し三ミリって絶対ですか?」
墨田は茶屋を見る。
茶屋が紙を持つ。
「三ミリで受ける仕事は多い。でも製品や加工で変わる。仕上がりの端まで絵を入れるなら、切る位置より外まで伸ばしておく」
「何ミリ?」
「今回は何を作る? それ聞いてから」
茶屋は白い紙と、塗り足しのある見本を重ねた。端をほんの少しずらすと、下の絵柄が細く見える。質問した人が、身を乗り出した。
会場が笑う。
墨田が言う。
「今日の答え、大体それです」
ゆりが頭を抱える。
「セミナー三分で終わるじゃん」
「本質は三分」
「参加費返せって言われますよ」
「だから実例やるんだろ」
* * *
実例編。
スクリーンに、過去の不具合をもとに社名や図柄を置き換えた教材が映った。
リンク切れの画像、小さな四色の黒文字、足りない塗り足し。折り目にかかった顔、指定と違う色の扱い、拡大しすぎた写真。白い文字がオーバープリントの設定で消えた例では、資料をめくる音が止まった。
墨田は一つずつ、どこで何が起きたかを説明した。直し方まで話すと、最後に同じ質問をする。
「この例では、誰がいつ気づけば、手戻りが少なかったでしょうか」
参加者が考える。
「デザイナー?」
「営業?」
「DTP?」
墨田が答える。
「部署の名前だけでは決まりません。気づける材料を持っていた人が、まず声をかけることです」
「つまり?」
「作る前に決められることは、その段階で相談しておきましょう。あとから直す範囲が小さくなります」
黄金井が言う。
「版作ってから変えるよりねえ……データの段階で直す方がいいよ〜」
茶屋が続く。
「印刷してから折れないって分かるより、デザイン前に折り相談した方がいい」
青原。
「完成PDFを修正するより、制作途中で仕様を確認した方が修正範囲は小さいです」
緑野。
「見積もりも正確になります」
ゆりは会場を見た。参加者が黄金井へ向けた顔を、茶屋へ、青原へと動かす。緑野が見積書のどの欄に関わるかを示すと、ノートへ書き足す人がいた。
ゆりは次のスライドへ進める手を止めた。ここは、急がなくていい。
* * *
休憩前、一人の女性が手を挙げた。
「質問いいですか」
受付で、フリーランスだと話していた人だった。二十代後半くらい。ノートは開いているが、ペンにはキャップが戻されている。
「私、印刷会社に相談するのが怖いんです」
ゆりはリモコンを握ったまま、女性を見た。
あの夜、チェックリストの余白へ書いた「作る前に話す」。こちらがそう決めれば、相手も話せるようになると思っていた。女性の指は、閉じたペンを両手で挟んでいた。

「前に『こんなの常識でしょ』って言われたことがあって」
墨田の表情が変わらない。
女性は続ける。
「だから、それから全部自分で調べて、完成するまで印刷会社に見せないようにしてました」
ゆりは会場の後ろにいる緑野を見た。緑野も女性を見ていた。手元の資料は閉じられている。
墨田が聞いた。
「どのような相手に言われたんですか」
「前に使ってた印刷会社です」
「その返し方は、まずいですね」
ゆりがうなずきかけたところで、墨田が付け足した。
「相談を減らして、事故を増やしてしまっては、逆効果です」
女性の口元が少し緩んだ。ゆりは墨田へ、先を急がないでほしいというつもりで目を向けた。
墨田は一拍置いてから続けた。
「知らない人に『常識です』と返しても、知識は増えません。相談しなくなってしまうだけです」
女性が少し驚いている。
「でも、印刷会社って忙しいですよね。途中で聞いたら迷惑かなって」
「完成してから大きく直す方が、お互い大変になります」
墨田は、今度はゆっくり言った。
「どうか、途中で聞いてください」
ゆりが補足する。
「本当に、途中でいいです。ラフでも、仕様がまだ決まってなくても」
緑野が会場の後ろから、一歩前へ出た。
「最初のご相談は、営業へください。そこで答えられないことは、担当の部署に確かめます。すぐ返せないときも、いつ返せるかをお伝えします」
女性は緑野へ顔を向けた。
「何を聞けばいいか、まとまっていなくても?」
「何を作りたいかからで大丈夫です。一緒に整理しましょう」
青原も言う。
「むしろ、仕様が決まっていない段階の方が選択肢が多い場合があります」
女性はペンのキャップを外した。資料の連絡先へ、小さな丸を書き込んだ。
墨田が言った。
「分からないことは、恥ではありません。分からないのに分かった顔で次の工程へ渡す方が、危ないんです」
ゆりは、緑野が自分の手帳にも何か書いているのを見た。聞いてください、と言ったあとに、自分たちがすることがある。
* * *
昼休み。
会議室の扉の向こうから、弁当の袋を開ける音が聞こえた。ゆりは廊下の窓際にいる墨田へ、缶コーヒーを一本渡した。受け取った指に、冷えた缶の水滴がつく。
「今日、ちゃんと先生ですね」
「何だと思ってた」
「毒舌おじさん」
「帰るぞ」
「ごめん」
墨田は缶を開ける。
ゆりが聞く。
「でも、本当に全部覚えなくていいの?」
「覚えた方がいいよ」
「どっち」
「知識があるほど選択肢は増える。でも知識があることと、全部一人で解決することは違う」
「墨田さんは、何でも自分で分かるように見える」
「分からんよ」
「またまた」
「印刷機の癖は白石さんの方が分かる。今のAdobeの細かい仕様ならDTPの方が詳しい。加工の現場なら製本。紙なら紙屋に聞く。箔なら加工屋だ」
「じゃあ、墨田さんの強みって何?」
墨田は少し考えた。
「誰に聞けばいいか知ってること」
ゆりは黙る。
「あと、何を聞けばいいか」

ゆりは缶の口へ目を落とした。午前中、墨田は塗り足しの質問を茶屋へ渡していた。青原の説明も、途中で区切りはしたが、詳しい話は資料へ戻れるようにしていた。
自分で答えることと、人に聞くことの間に、ゆりが思うほど大きな境目はないらしかった。
「それ、セミナーで言えばいいのに」
「今言った」
「私だけじゃん」
「お前が言え」
「やっぱ通訳」
* * *
午後は、小さなグループに分かれて制作途中の相談を練習した。茶屋の折り見本を囲む机では、紙を開いたり閉じたりする音が続いた。
最後の振り返りで、墨田は第一印刷の社員たちへ向き直った。
「では、今度は印刷会社側に伺います」
緑野が背筋を伸ばした。
「来ましたね」
「緑野さん。デザイナーの方には、早めに相談してくださいとお伝えしましたね」
「はい」
「皆さんは、社内で早めに相談できていますか」
会場が少しざわつく。
緑野は苦笑した。
「改善中です」
「青原さん。DTPでは、加工条件をいつ把握していますか」
青原が答える。
「案件によります」
「伺いたいのは、決まった条件が、必要な人へ届く仕組みです」
「現在、制作開始時の仕様共有表を試行しています」
「黄金井さん。工場には、お客さまがなぜその色を求めているかまで伝わっていますか」
黄金井。
「最近は営業から聞くようにしてる」
「以前はいかがでしたか」
「前は色見本だけ来ることもあったねえ……」
「茶屋さん。納期だけでなく、何時に紙が届くかも分かりますか」
茶屋。
「今は共有表に入る」
墨田は参加者へ向き直った。
「こちらも、仕組みを直している途中です」
ゆりが言う。
「今日は私たちも、確認される側ですね」
「同じ仕事を作るんだから」
墨田は続ける。
「印刷会社だから、すべて分かっているとは限りません。部署が違えば、知らないこともあります。ですから、ご相談の際は用途まで教えてください」
そして第一印刷側を見る。
「印刷会社側も、専門用語だけで返して終わりにしないでください。『できません』に加えて、『どんな方法ならできるか』までお返ししましょう」
青原が小さくうなずいた。黄金井は手元の見本を閉じ、緑野が何か言うのを待つ。
「相談を受けたあと、社内へ渡して終わりにしない。先ほどお約束した返事まで、営業で追います」
茶屋が、
「俺のとこに聞くのも、早めにな」
と言った。緑野は笑って、手帳にもう一行書き足した。
* * *
セミナーの最後。
ゆりはスクリーンに一枚だけ映した。先日の社内打ち合わせで、自分の手帳にも書いた言葉だった。
『分からないことを、黙って次へ渡さない。』
墨田が隣に立つ。
ゆりが言った。
「今日、画像解像度も、塗り足しも、RGBも、特色も、製本も、いろいろ話しました」
「でも、全部覚えなくても大丈夫です」
参加者を見る。
「分からなかったら、聞いてください」
墨田が言う。
「完成前に、ご相談ください」
ゆり。
「できれば、もっと前に」
墨田。
「印刷物の仕様を考えるところから、お声がけいただけます」
ゆり。
「私たちも一緒に考えます」
参加者の若い男性が聞いた。
「じゃあ、デザインできてなくても相談していいんですか?」
「もちろん」
ゆりが答える。
墨田が付け足す。
「その方が、仕事を進めやすくなります」
「誰が?」
「全員」
会場が笑った。
ゆりは最後に言った。
「デザイナーさんはデザインの専門家です。印刷会社は印刷の専門家です。加工会社には加工の専門家がいます」
「全部を一人でできる必要はありません」
久世漆彩堂の仕事で覚えたことと、同じだった。
「得意な人同士で話して、一つのものを作ればいいんです」
拍手が起きた。ゆりはリモコンを机へ置き、頭を下げた。顔を上げると、午前中に質問した女性が、隣の人へ資料の連絡先を示していた。
* * *
セミナーから一か月。
第一印刷では、小さな変化が続いていた。共有表の空欄には「未定」と書かれ、その横に、確かめる相手と日付が入るようになった。
新しい案件の仕様書を持って、緑野が製本課へ顔を出す。
「A4三つ折り。紙まだ未定。茶屋さん、面幅を先に相談したいんですけど」
茶屋は折り見本の束を引き寄せた。
「紙厚決めてから最終確定な」
別の案件では、ゆりがDTP室の扉をたたいた。
「企業ロゴ、特色指定です。青原さん、デザイン始める前に色データ確認してもらえます?」
青原は受け取った資料へ目を通す。
「可能です。現物色見本の有無も確認してください」
工場では、黄金井がラフの大きな黒い面を指で囲んだ。
「ベタ多いな。紙決める前に、こっちも一度打ち合わせに入れてくれ」
営業が予定表を開く。
「分かりました」
白石は相変わらず必要なことしか話さない。営業が、
「この色、画面の見本しかないです」
と言うと、
「じゃあ、紙でどう見せたいか決めてこい」
と返した。
「色見本を出して、先方と確認します」
営業が答えると、白石は一度うなずいた。まだ紙を刷る前の話だった。
仕事が突然完璧になったわけではない。データ不備も、詰まった納期も、伝え忘れも残っている。
それでも、止まってから話す回数は減った。止まる前に誰かが机を離れ、別の部署へ顔を出すことが増えた。
* * *
月末の会議。
玲子が数字を読み上げる。
「データ不備による差し戻し件数、二か月前と比べて三割減。受注件数はほぼ同じね」
ゆりが小さく拳を握る。
「データ修正に使った時間は、十三・二時間減」
青原が訂正する。
「十三・四時間です」
「細かいわね」
「記録なので」
「工場の予定変更も減ってる」
黄金井がうなずく。
「前より早く相談来るからねえ。だいぶ楽だよ」
玲子が茶屋を見る。
「残業は?」
「俺は元から少ない」
「サボってるものね」
「効率です」
笑いが起きた。
玲子は資料を閉じる。
「墨田さんに、またお願いしてみましょうか」
ゆりが言う。
「次も断りますよ」
「報酬上げれば」
「金じゃないって言ってました」
緑野が笑う。
「赤坂が次の困りごとを持っていけば、聞いてくれるんじゃないか」
「何で私」
そのとき、机に置いていたゆりのスマートフォンが震えた。画面の端に墨田の名前が見える。
『セミナー後どう』
ゆりは会議が一区切りしたところで返信した。
『差し戻し3割減』
すぐ返事。
『もっと減らせ』
『褒めろ』
『まだ』
ゆりは笑った。
墨田らしい。
* * *
会議が終わったあと。
玲子がゆりを呼び止めた。
「今回、よかったわね」
「墨田さんですか?」
「あなたも」
「珍しくちゃんと褒めてもらえてます?」
「今、ちゃんと褒めているところよ」
玲子は会議室のホワイトボードを見る。
先ほどの振り返りで、ゆりが書いた文字が残っている。
『分からないことを、黙って次へ渡さない。』
「印刷会社って、コミュニケーションを作る会社なのにね」
玲子が言う。
「自分たちのコミュニケーションが一番難しい」
ゆりは笑った。
「墨田さんに言わせると、頭悪すぎるらしいです」
「言いそう」
「でも、ちょっと分かった気がします」
「何が?」
「コミュニケーションって、話すことだけじゃないんですね」
玲子が見る。
「何だと思う?」
「同じものを思い浮かべているか、確かめること」
ゆりは、少し考えて続けた。
「分かってないって言えることも」
玲子は笑った。
「ずいぶん成長したわね」
「墨田さんが聞いたら否定します」
「でしょうね」
* * *
午後七時三分。
DTP室を通ると、青原がモニターの電源を切っていた。画面が暗くなり、机に置いた折り見本だけが照明の下に残る。
「帰るんですか?」
ゆりが聞く。
「帰ります」
「自分から?」
「事前確認案件が増えたので、修正作業が減っています」
「すごい」
「ただし、仕様確認の打ち合わせは増えました」
「仕事減ってない?」
「種類が変わりました」
青原は鞄を持つ。
「赤坂さん」
「はい」
「外部セミナー資料の改訂版を作りました」
「何ページ?」
「六十三ページ」
「増えてる!」
「詳細資料です」
「講義では使わないですよ」
「承知しています」
青原は資料を共有した場所を伝え、鞄を持って出ていった。ゆりも営業部へ戻る。机の上の確認済みの紙をそろえ、メールを開いた。
差出人は、セミナーで「相談するのが怖い」と話したフリーランスのデザイナーだった。
件名は、『制作途中のご相談』。
『まだラフ段階なのですが、特殊紙と箔押しを検討しています。デザインを固める前に、一度仕様について相談してもよろしいでしょうか。』
ゆりは、その文面をしばらく見た。添付ファイルはない。どの紙にするかも、どこへ箔を押すかも、これからだった。
資料の連絡先へ、小さな丸を書いた指を思い出した。
ゆりは手帳を開き、茶屋の名前と、紙見本を借りることを書き込んだ。今なら、デザインを固める前に確かめられる。

返信する。
『もちろんです。どんなものを作りたいか、お聞かせください。用途や部数、お届けの時期も、決まっている範囲で大丈夫です。明日、打ち合わせの候補日をご連絡します。』
送信すると、翌日の予定表にも一行入れた。返信を待つだけでなく、自分から連絡するための印だった。
数秒後、墨田からゲームのメッセージが来た。
『今日ログインする?』
ゆりは返信した。
『する。仕事終わったら』
『遅い』
『今日は早い』
『何時』
『まだ分からない』
少しして。
『分からないなら確認しろ』
ゆりは笑った。
『誰に?』
『自分の仕事に』
「うるさい」
声に出して言うと、向かいの机にいた緑野が顔を上げた。ゆりは「独り言です」と手を振り、明日の予定をもう一度確かめた。
閉じかけた手帳の端に、二十六項目の紙が挟まっている。あの夜より、余白の文字が増えていた。
印刷は、紙にインキが載ったところから始まるわけではない。版を作ったところでも、データが完成したところでもない。
誰かが「これを作りたい」と言って、別の誰かが「じゃあ、どう作ろう」と返した瞬間。
たぶん、印刷はもう始まっていた。

Track 11 | Communication Breakdown ― 後編
KEYWORDS
入稿セミナー / RGB・CMYK / 解像度 / 塗り足し / 部門連携
TECHNICAL NOTES
画像の解像度は、元画像のピクセル数と配置後の使用サイズから求める実効解像度で確認します。必要な値は印刷方式、見る距離、画像の細部や求める品質で変わります。数字だけを書き換えても、元の画像に写っていない細部が増えるわけではありません。RGBの入稿可否も一律ではなく、受け取り側の条件、色変換を担当する人、出力条件と色の確認方法を合わせます。
塗り足しは、仕上がりの端まで絵柄があるときに、断裁位置のずれで白い縁が出るのを防ぐため、絵柄を仕上がりの外へ延ばすものです。必要な幅は製品や加工先の指定を確認します。小さい黒文字、巻き三つ折りの面幅、金属の光沢を求める加工も、用紙や設備、求める仕上がりを具体的にして相談します。
プリフライトや入稿マニュアルは大切な確認の道具です。そのうえで、用途、未確定の仕様、判断に必要な見本を関係者と共有します。分からないことをすぐにすべて解決できなくても、未確定であることと確認する担当・期限を伝えることはできます。相談を受けた側も、問題点に加えて可能な方法と次の確認先を返す。それが、制作途中から話せる関係を支えます。
※技術解説は物語中の状況を理解するための一般的な補足です。実際の条件や最適な設定は、印刷方式・用紙・設備・加工内容によって異なります。
