* * *
「昨日と同じ色にしてください」
印刷会社で働き始めて半年。赤坂ゆりは、その言葉が少し怖くなっていた。
つい一週間前までなら、「はい、同じデータなら大丈夫です」と笑って答えていただろう。けれど、古い家族写真を一枚預かったあの仕事で、紙に色をのせるということが、思っていたほど単純ではないと知った。画面の中では揃っていたものが、機械を通り、紙になって出てくると、少しずつ違う顔をする。
それでも、昨日うまくいった仕事なら。
そんな期待が、まだどこかに残っていたのだと思う。
その朝、ゆりは昨日と同じ版、同じ紙、同じインキで刷られたポストカードの刷り見本を手にして、工場の真ん中で立ち尽くしていた。
「……違う」
昨日より暗い。写真の中の女性が、ひと晩のうちに疲れてしまったように見えた。
九月の初めだった。昨日までは雨が続き、朝夕には薄い上着が欲しいくらいだったのに、今日は朝から空が白くまぶしかった。九時を回ったばかりで、外の気温はもう三十度を越えている。シャッターの隙間から入る風も生ぬるく、ゆりの首筋には、髪の先が張りついていた。
印刷機の前では、黄金井大介が腕を組んでいた。第一印刷の工場長、通称ゴルさん。いつもなら大きな身体を少し持て余すように立っている人だが、今朝は動かない。
「ゆりちゃん。昨日の本紙校正、持ってきて」
ゆりは机に置いたファイルを開いた。客先で了承をもらい、折れないように挟んでおいた一枚を取り出す。
確認台の明かりの下に、昨日と今日の刷りを並べた。紙はどちらもアラベール ナチュラル、百六十キロ。版も、元のデータも同じだった。
昨日の女性の頬には、生成りの紙によく馴染む、柔らかな肌色がのっている。今日の頬は影が深く、髪の暗い部分には細い筋が見えなくなっていた。背景の赤茶色まで、一段重い。
「同じですよね?」
黄金井は二枚から目を離し、ゆりを見た。
「何が〜?」
「全部」
「全部同じなら、こうはならないよ」
「でも、同じですよね?」
黄金井の口元が、ようやく少し緩んだ。
「ゆりちゃん、その質問、今日何回目なの」
数えていなかった。けれど、答えを聞くまでに、あと何回かは言いそうだった。
* * *
その仕事は、町の洋菓子店「木の実」の創業五十周年記念ポストカードだった。
第一印刷から車で十五分ほど。商店街の途中にある小さな店で、ガラス戸を開けると、冷えたショーケースの空気の向こうからバターの匂いがした。並んでいるのはショートケーキやシュークリーム、昔ながらのバタークリームケーキ。打ち合わせに行った日も、年配の女性が、迷わずいつものものを頼んでいた。親子三代で通う客もいるのだと、店の娘が教えてくれた。
五十周年の週末、その客たちへ記念のカードを配ることになった。
表に使うのは、三十年ほど前の店先で撮った家族写真だった。中央で笑っているのが恵美子。その隣に夫の修一と、小学生だった娘の遥が立っている。恵美子のエプロンは少し曲がり、遥は両手を身体の前で重ねていた。店の看板の赤茶色だけが、いまより鮮やかだった。

恵美子は三年前に亡くなった。
いま店に立っているのは修一と、地元へ戻ってきた遥だった。遥は東京の洋菓子店で十年以上働き、母の死をきっかけに帰ってきた。菓子を作る腕があり、接客もできる。打ち合わせの合間に、仕入れの伝票や予約の数も確かめていた。
それでも修一は、娘に店を任せようとはしなかった。
「まだ早い」
ショーケースを変える話にも、ネットで予約を受ける話にも、その言葉が返ってくるのだという。包装紙を作り直そうと持ち出したときには、「今のままで困っとらん」と言われた。
五十周年のカードも、最初は必要ないと言われたらしい。それでも遥は話を進め、紙の見本帳を一枚ずつめくって、アラベールを選んだ。
指で撫でると、ごく細かな凹凸がある。つるつるしたコート紙とは違い、光を静かに受け止める紙だった。ナチュラルの地色は真っ白ではなく、わずかに生成りがかっている。同じ写真でも、艶のある紙とは色の立ち方が変わる。
遥は、その落ち着いた風合いを気に入っていた。
「母のケーキって、派手じゃなかったんです」
昨日、本紙校正を見ながら、そう言った。店の奥では冷蔵庫が低く鳴っていた。遥は校正紙の隅を指で押さえ、写真の母親を見ていた。
「今みたいに写真映えする飾りもないし、色も地味。でも、箱を開けたとき、なんか温かかった。だから、真っ白でピカピカのカードにはしたくなくて」
修一は黙って聞いていた。しばらくして校正紙を持ち上げ、少し腕を伸ばした。
「まあ、印刷はこれでいい」
遥の顔が明るくなった。その変化が小さかったぶん、ゆりにはよく分かった。
「でも店のことは別だぞ」
修一が紙を置いた。テーブルの上で、端がかすかに鳴った。
「……分かってる」
「お前は何でも変えたがる」
「変えたいんじゃなくて、続けたいの」
「同じことだ」
遥は口を開きかけ、それから閉じた。校正紙の端を押さえていた指だけが、ゆっくり離れた。
ゆりには、帰りの車に乗ってからも、その横顔が残っていた。
* * *
「アラベールって、こういう色になる紙なんですよね?」
今朝の刷り見本を持ったまま、ゆりは黄金井に聞いた。
「こういう、って?」
「ちょっと沈むというか、くすむというか」
「コート紙とは違う色の出方をするねえ。紙自体の色もあるし、表面も違う。だから、あの風合いになるのよ」
黄金井は昨日の校正を、今日の刷りのすぐ横へ寄せた。
「でも、問題はそこじゃないのよ〜。昨日も同じアラベールだからねえ」
ゆりは二枚を見下ろした。紙の名前を覚えれば、少しは話が早くなると思っていた。どうも、名前の先にもまだ道があるらしい。
「じゃあ、何が違うの」
黄金井は、断裁すれば落ちる余白を指した。測定用の小さなパッチが並んでいる。
「五十パーの網。昨日のと見比べてみて」
ルーペを受け取り、ゆりも覗いた。各色のパッチを順番に追う。前の仕事で覚えた点が、紙の上に規則正しく並んでいた。昨日の刷りへ戻り、また今日の刷りを見る。
「昨日より、点が大きい?」
「そう」
「データは同じなのに?」
「刷ったあとの網点は、データの数字そのままじゃないのよ。今日は昨日より太ってる。ドットゲインが増えてるんだよねぇ」
「点が太るやつ」
「お、覚えてたの〜」
前の仕事のあと、分からなかった言葉をいくつか調べた。そのうちの一つだった。ゆりは少し胸を張った。
「私だって成長します」
「一応ね〜」
黄金井は壁の温度計を顎で示した。昨日の校正を刷った時間帯の記録より、室温は七度高い。
「インキの状態も変わってる。朝から急に暑くなったからねえ」
「暑いと広がる?」
「温度が上がると、粘りが変わって広がりやすくなることはあるよ。そこへ水とのバランスや印圧も絡む。この紙がどうインキを受けるかまで見ないとね」
暑いから、という一言で済む話ではないらしい。ゆりはルーペを外し、今度は二枚を同じ距離から見た。
「点が大きくなって、紙の白いところが減る。それで濃く見える」
「うん。今朝の違いは、そこにも出てるねぇ」
黄金井がうなずいたので、ゆりは顔を上げた。
「褒めてます?」
「今のところはね」
そのとき工場の電話が鳴った。ほとんど同時に、ゆりのポケットでもスマートフォンが震えた。画面には「木の実 日高様」と出ている。
黄金井が目をやった。
「はい、褒めるの終わり〜」
「早い」
「ゆりちゃん、出たほうがいいんじゃない?」
ゆりは一度息を吸い、通話のボタンを押した。
* * *
修一と遥が第一印刷へ来たのは、十一時前だった。本刷りの立ち会いである。
記念カードは千枚。今日中に印刷をまとめ、乾燥を確かめてから断裁し、明日の朝に納める予定だった。ゆりの机の上には、その段取りを書いた紙が置いてあった。朝から何度も見ているせいで、納品時間の数字だけが目についた。
修一は額の汗をハンカチで押さえ、遥は薄い布のバッグを肩から下ろした。ゆりは二人を確認台へ案内し、昨日の校正と今朝の刷りを並べた。
「申し訳ありません。今朝の刷りは、昨日より写真が濃く出ています。いま、原因を確認して調整しています」
遥はすぐに顔を近づけた。
「ほんとだ。お母さんの顔、暗い」
修一の眉が動いた。
「昨日は、これでいいって言っただろう」
「はい。昨日の色に合わせます。同じ版、同じ紙を使っていますが、今朝は温度などの条件が変わっていて――」
「だから俺は、普通の白い紙でよかったと言ったんだ」
修一が今朝の刷りを持ち上げた。ゆりの説明が終わる前に、遥が父へ顔を向けた。
「またそれ?」
「こういう紙は色が沈むんだろ」
「紙のせいだけじゃないって、今説明してるじゃない」
「わざわざ難しい紙を選ぶ必要があるのかって話だ」
遥は父の手元を見た。それから、台に残った昨日の校正へ視線を移した。
「昨日は、これでいいって言ったよね」
「昨日は昨日だ」
修一はそう言って、紙を戻した。
工場の音は止まっていなかった。それなのに、確認台のまわりだけが急に静かになった気がした。遥のバッグの持ち手が、指の中でねじれていた。
「……そうなんだ」
「何がだ」
「昨日はよくても、今日はダメなんだ」
修一が娘を見た。
「印刷の話だろう」
「いつもそうじゃん」
遥の声は大きくなかった。そのぶん、ゆりのいる場所にも一つずつ届いた。
「東京から戻ってきたときも、助かるって言った。次の日には、店は任せられんって言った。ネット予約も、最初は考えるって言って、次の日には必要ないって。今回のカードだって」
「それとこれとは――」
「私が何をしても、次の日になったら、認めたことをなかったことにする」
修一は口を結んだ。遥は少しだけ息を継いだ。
「お父さんが守りたいのは店なの? それとも、お母さんがいた昨日なの?」
修一の手が止まった。握っていたハンカチの白さが、日に焼けた指の間に見えた。
「遥」
「ごめん。言いすぎた」
遥は先に謝った。けれど、父へ視線を戻さなかった。
ゆりは、確認台の端に置いた自分の手を引っ込めた。印刷のトラブルを謝るはずだった。なのに、二枚の紙の間には、ゆりの知らない三年間があった。いま何か言えば、その上へ不用意に手を置いてしまいそうだった。
* * *
二人を応接スペースへ案内してから、ゆりは工場の音が少し遠くなる廊下へ出た。
『で、お前はまた客を怒らせたのか』
チャットの向こうで、墨田一貴が言った。ゲームでは「一気」、仕事の話になると逃げ道を一つずつ塞いでくる人である。
「私じゃない」
『今回は、だろ』
「それより印刷。昨日の本紙校正と同じ版、同じアラベール ナチュラル160kg。同じインキ、同じ設定。今日は急に暑くなって、昨日より網が太ってる」
短い沈黙のあとで、墨田が言った。
『ちゃんと分かってるじゃないか』
「ゴルさんに聞いた」
『台無しだな』
「解決方法」
廊下の窓は少し開いていた。外で車が一台通り過ぎ、ぬるい風が入ってきた。
『昨日は出てたんだろ。その紙と設定数値で』
「出てた」
『なら、すぐ版を触るな。昨日は狙いどおりだったんだ。今日だけ変わったなら、まず今日の機械条件を疑え』
ゆりは開いた扉の向こうを見た。黄金井が印刷機のそばで、何かの数値を確かめている。
『インキの粘りも、水とのバランスも変わる。圧が適正かどうかも見る。原因を一つに決めつけるなよ』
「機械で戻せる?」
『戻せる範囲ならな。版側の補正が必要な場合もある。でも今の話なら、先に機械だ』
「ゴルさんがやるんですか?」
少し間が空いた。次に届いた短い返事は、どこか可笑しがっているように見えた。
『そこにベテランの印刷オペレーターがいるだろ』
ゆりは工場の奥を見直した。白石龍三が、いつの間にか確認台の前に立っていた。腕を組み、今朝の刷りを見ている。
「いる」
『なら、俺に聞く必要なかったな』
「いや、説明は必要」
『数字は答えじゃない、記録だ、とだけ言っとく』
話を切られそうになって、ゆりは慌ててチャットを打った。
「あと、もう一個」
『何』
「昨日までダメだと思ってた人を、今日になって認めてもいいって思うこと、ある?」
今度の沈黙は長かった。ゆりは窓枠に触れ、指先に残った細かな埃を親指で払った。
『何の話だ』
「お客さん」
『知らん』
「冷たい」
墨田は、すぐには話を切らなかった。
『昨日と今日で、人間の中身が全部変わるわけじゃない』
「じゃあ無理?」
『違う。昨日まで見えてなかったものが、今日見えることはある』
ゆりは工場の扉へ目を戻した。ここから応接スペースは見えなかった。
『印刷と一緒にするなよ』
「まだ何も言ってない」
『お前は絶対する』
一気がログアウトした。暗くなったチャット画面に、ゆりの顔が薄く映った。
* * *
「なにしてるの?」
背後から声がして、ゆりは振り返った。
藍川玲子が、廊下と工場の境目に立っていた。第一印刷の社長で、六十八歳。怒ると、はっきりした二重の目が細くなり、一本の線のようになる。
今はまだ二重だった。ゆりは少しだけ安心した。
「ネットの友人に、今日の『木の実』さんの印刷のことを…」
「なんて?」
「昨日は同じ版でちゃんと出てるなら、版を作り直す前に、今日の機械を見ろって」
玲子は小さく笑った。
「ずいぶん詳しいのね、その人」
「そうなんです、印刷会社を経営してたみたいで」
「へえ」
玲子はそのまま何か考えるように、工場へ入っていった。ゆりもあとに続いたが、それ以上話す機会はなくなった。
白石は、黄金井から渡された記録と刷りを見ていた。昨日の校正と今日の一枚を、同じ明かりの下で交互に確かめる。紙の端を指で撫で、温度計に目をやり、機械へ戻る。ゆりには、一つずつの動きが何を意味するのか、まだ分からなかった。
「白石さん。昨日と今日で、こんなに変わるんですか?」
「変わる」
「機械なのに?」
「機械だから」
白石はそれ以上説明しなかった。ゆりが困った顔をすると、横にいた玲子が言った。
「機械は、同じ設定で動かせる。でも、紙もインキも空気も、同じ状態ではいてくれないの」
黄金井が記録用紙を持ち直した。
「先代もよく言ってましたねえ。昨日の数字は、今日の正解じゃないって」
玲子の目が、ほんの少し柔らかくなった。
先代とは、事故で亡くなった夫の正男のことだった。ゆりは会ったことがない。けれど工場にいると、こうして、ときどき名前の出ないままその人の話になる。
「あの人、記録魔だったでしょう」
「天気まで書いてました」
「室温、湿度、紙、インキ、機械の状態。私は昔、そんなものまで書いて何になるのって言ったのよ」
玲子は確認台の紙を一枚、まっすぐに置き直した。その指が離れるのを見てから、ゆりは聞いた。
「先代は、なんて?」
玲子は少し考えた。言葉を探すというより、聞いたときの声を思い出しているようだった。
「数字は答えじゃない。昨日の記録だ、って」
墨田と同じ言葉に、ゆりは驚いた。
やがて機械が止まり、白石が点検のためにカバーを開けた。低い運転音がなくなると、外の車の音や、どこかで紙を揃える音が急にはっきりした。
玲子がゆりを見た。
「昨日と今日は違うのよ。だから、昨日と同じものを作りたいなら、今日を見てみましょう」
ゆりはうなずいた。今朝から二枚の紙ばかり見ていたことに、そのとき気づいた。
* * *
白石の調整は、ゆりが想像していたより地味だった。
大きな部品を交換するわけでも、データを書き換えるわけでもない。湿し水の状態を確かめ、給水とインキのバランスを見る。停止中の機械で印圧を確認し、必要な箇所をわずかに調整する。
「それだけ?」
思わず口にすると、黄金井がゆりを見た。
「その『それだけ』を合わせるのが仕事だよ」
白石は何も言わなかった。カバーを閉め、機械を回す。紙が送られる音が重なり、排紙側に刷りが積まれていく。
白石は抜き取った一枚を確認台へ運んだ。ルーペを当て、余白のパッチを測る。黄金井が記録と数値を見比べた。短い言葉が二つ三つ交わされ、また機械へ戻る。

一度触れば、すぐに答えが出るわけではなかった。何枚か通し、状態が落ち着くのを待って、もう一度確かめる。ゆりはその間、昨日の校正を持って立っていた。役に立ちたいと思うほど、持った紙の角を曲げないことくらいしか、できることがなかった。
「何ミリ動かしたんですか?」
白石は顔を上げた。
「数字だけじゃない」
ゆりの手元の校正ではなく、台に置いた刷りを指した。
「今日の紙」
それだけだった。
次に出てきた一枚を、ゆりは昨日の校正の横へ置いた。
生成りがかった地色。少し落ち着いた赤。母親の頬に、柔らかな明るさが戻っていた。髪の暗い部分にも、細い流れが見える。
完全に同じだと言い切れるほど、ゆりはまだ印刷を知らない。それでも、朝の重さが消えたことは分かった。
「戻った」
黄金井が測定器を当てた。白石は結果を確かめると、次の一枚も同じように見た。
「白石さん。昨日の設定に戻したんですか?」
白石がわずかに眉を寄せた。
「いいや」
「でも、昨日みたいな色です」
今度は顔も向けずに、白石は言った。
「今日は暑い」
ゆりは、その言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
今日は暑い。
首筋に張りついていた髪を、指でそっと払った。
* * *
修一と遥は、工場の隅にある応接スペースで待っていた。
二人の間には、人がもう一人座れそうなくらいの隙間があった。修一は膝に手を置き、遥はスマートフォンを見ている。ゆりが入れた冷たいお茶は、グラスの外側に水滴をつけていた。
呼びに行こうとしたところで、遥の電話が鳴った。
「はい、木の実です」
声が変わった。さっきまで父に向けていた声とは違う。ゆりが店で何度か聞いた、相手の話を受け止めるときの声だった。
「大丈夫。苺は今日の分を先に使って。明日の予約分は、午後便が来てから仕込み直して」
ゆりは少し離れて待った。遥は片方の手でバッグからメモ帳を出したが、途中でその手を止め、相手の話に耳を傾けた。
「うん。氷水を替えて、ボウルもちゃんと冷やして。今日は厨房が暑いから、いつもの時間で決めないで。クリームの状態を見て止めてね」
最後の言葉を、ゆりは工場のどこかで聞いた気がした。けれど遥は印刷の話など知らず、電話の向こうにいる店の人へ、必要なことを伝えていた。
電話を切ると、修一が顔を向けた。
「誰だ」
「加奈ちゃん。厨房が暑くて、クリームの様子がいつもと違うって」
「で?」
「まず冷やして、状態を確かめてもらう。いつもの時間だからって、そのまま回さないでって」
修一は黙った。遥はスマートフォンをしまいながら、父を見た。
「何。間違ってる?」
「間違っとらん」
バッグへ入れかけた遥の手が止まった。
修一はその手元を見て、それから娘の横顔を見た。
「お前、いつからそんな判断できるようになった」
遥は笑わなかった。
「東京にいた十年、何してたと思ってるの」
「菓子作っとった」
「作るだけじゃないよ」
修一はしばらく黙っていた。テーブルの上のお茶へ手を伸ばし、持ち上げる前に引っ込めた。
「……そうか」
それだけだった。けれど、さっきまでの「まだ早い」とは違って聞こえた。
ゆりは二人の視線が離れるのを待ってから、刷り見本を差し出した。
「出ました。見ていただけますか」
* * *
確認台には、昨日の本紙校正と、白石が調整した今日の刷りが並んでいた。
遥は今日の一枚を見た。母親の顔を確かめ、看板へ目を移し、最後に紙全体を眺めた。
「うん」
短い返事だった。そのあと肩が少し下がったので、ゆりもようやく息をつけた。
修一も覗き込んだ。写真の中には恵美子と、古い木の実の看板と、小学生の遥がいる。真っ白ではない紙の上で、三十年前の色が落ち着いていた。光にかざしても、艶が強く跳ね返ることはなかった。
「同じデータなんですか?」
修一が聞いた。
「はい。版も昨日と同じです」
「じゃあ、何を変えたんです?」
ゆりは工場を振り返った。白石が排紙側に立ち、次の刷りを確かめていた。
「機械の条件です。今朝は昨日より網点が太っていたので、湿し水やインキのバランス、印圧を確かめて、今日の状態に合わせました」
「同じものを作るのに、やり方を変える?」
「そうみたいです。昨日と今日は違うので」
自分で言ってから、ゆりは少し笑った。朝の自分に聞かせたら、きっとまた「でも同じですよね」と言うだろう。
修一は紙を見たまま黙っていた。
「これでいい?」
遥が父の顔を覗いた。修一がうなずくまで、少し間があった。
「紙も?」
「紙も」
「ほんとに?」
「しつこい」
「だって朝は、こんな紙って言った」
修一は、印刷のない余白を親指で撫でた。
「母さん、こういう紙が好きだったな」
「だから選んだんだよ」
「知っとる」
遥が眉を上げた。
「知らなかったじゃん」
「さっき知った」
父の指が止まった。今度は写真ではなく、娘を見ていた。
「さっき店から電話が来とっただろ。クリームの話」
「それが?」
「俺なら、たぶん同じこと言った」
遥は何も言わなかった。修一は言い慣れないことを続けるように、一度口を結んだ。
「温度が違えば、昨日と同じ時間じゃ駄目だ。状態を見て決める」
「うん」
「お前も分かってきたんだな」
「……何を?」
「店のこと」
遥は父を見たまま、瞬きをした。ゆりには、その言葉が遥のところへ届くまで、少し時間がかかったように見えた。
修一は、そんなことを言った自分が落ち着かないのか、校正紙の位置を直した。
「全部任せるとは言っとらん」
「はいはい」
「ネット予約も、まだ分からん」
「そこはこれから説得する」
「勝手に決めるな」
遥の口元に、かすかな笑みが戻った。
「でも、昨日までよりは一つ進んだでしょ」
修一は答えなかった。遥は急かさず、その顔を見ていた。
やがて修一が、写真の中の小さな娘を指で示した。
「俺が見とったのは、ずっとこっちだったのかもしれん」
遥の表情が止まった。
「戻ってきてからのお前を、ちゃんと見とらんかった」
ゆりは視線を落とした。確認台の下に、紙を入れる空の箱があった。向きを揃える必要もなかったが、少しだけ直した。
「昨日までのお前がなかったことになるわけじゃない。ただ、もう、この頃のままじゃないんだな」
遥が小さく息を吐いた。泣きそうなのか、笑おうとしているのか、ゆりは顔を上げなかった。
「そりゃそうでしょ。私、もう四十前だよ」
「言うな。俺まで年取った気がする」
「取ってるよ」
二人の笑い声が重なった。
ゆりが顔を上げると、父と娘は、同じ一枚の紙を見ていた。

* * *
本刷りが安定したのは、午後三時を少し回ったころだった。
印刷機から、大きな用紙が次々と出てくる。並んだカードの絵柄は、どれも朝より軽やかだった。生成りの上の赤茶色も、恵美子の肌も、紙の風合いに馴染んでいる。
白石は途中でも刷りを抜き、確認台の見本と比べた。黄金井が測定して記録をつける。その間にも、窓から差す光の角度は少しずつ変わっていた。
「ずっと調整するんですね」
「必要ならねえ。印刷してる間も、今日そのものが進んでるから」
ゆりが聞き返すと、黄金井は壁の温度計を見た。
「時間が経てば温度も変わる。機械も温まる。最初に合わせたら終わりじゃないのよ」
白石は刷りを台へ置き、機械に目を戻した。動きは朝と変わらず小さかった。ゆりには、どこをどれだけ動かしたかは分からない。ただ、出てくる写真の顔が暗くならないことは分かった。
夕方、修一と遥が見本を受け取りに来た。本体の納品は予定どおり明朝。乾きを確かめて先に仕上げた数枚を、ゆりは袋に入れて渡した。
遥が一枚を取り出し、父へ見せた。
「店のレジ横に置く?」
「好きにしろ」
「じゃあ窓側にも置く」
「日に焼けるだろ」
遥はカードと父を交互に見た。
「じゃあレジ横」
「最初からそうしろ」
「めんどくさ」
言いながらも、遥はカードを丁寧に袋へ戻した。朝、確認台の前で聞いた声とは違っていた。
修一が車へ向かいかけて、振り返った。
「遥。改装の図面、今晩もう一回見せろ」
遥は袋を抱えたまま、父を見た。
「見るだけ?」
「まず見る」
「昨日は見もしなかったのに」
修一は車の鍵を持ち替えた。何か言い返すのかと思ったが、少し考えてから言った。
「昨日と今日は違う」
遥が笑った。ゆりも、二人を見送るために開けた扉のところで、少し笑った。
* * *
二人が帰ったあと、ゆりは工場に残った刷り見本を手に取った。
玲子が横から覗いた。
「どう?」
「アラベール、好きかもしれません」
「そこなの?」
「この、ちょっと落ち着いた色の感じ。紙も真っ白じゃないし」
玲子は余白に指先を当てた。
「何でも鮮やかならいいわけじゃないものね」
「はい」
ゆりはルーペを当てた。同じ版から生まれた点なのに、朝の刷りとは違っている。今日の紙に、今日のインキがのっていた。その小さな点を落ち着かせるまでに、白石は何度も機械と確認台を往復した。
昨日の記録は必要だ。でも、昨日の数字だけでは、今日の色は決まらない。
壁の温度計は、朝よりさらに一度上がっていた。窓の外には、夏が戻ってきたような空がある。昨日、帰り際に少し寒いと思ったことが、ずいぶん前のことに感じられた。
人も同じだ――と、口に出しかけて、やめた。
墨田に怒られそうだった。
ルーペを置き、ポストカードを眺める。写真の中の遥は、両手を前で重ねたまま笑っている。さっき帰っていった遥は、その手にカードを抱え、父と並んで歩いていた。
ゆりは刷り見本を記録用のファイルへ挟んだ。余白には黄金井の字で、日付、紙、室温、湿度、印刷条件が書かれている。その下に、小さく一行。
――朝から気温急上昇。白石、水・印圧調整。
紙の端を揃え、ファイルを閉じる。明日、これを開く人がいる。
昨日と今日は違う。
だから今日は、今日のやり方を。

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KEYWORDS
ドットゲイン / アラベール / 温度 / 湿し水 / 印圧
TECHNICAL NOTES
同じデータ、同じ版、同じ紙を使っても、印刷結果が毎日まったく同じになるとは限りません。データ上の網点の値に対し、印刷物で測った網点の値が増えることを、ドットゲイン、またはトーンバリューインクリース(TVI)と呼びます。インキが広がるなどの物理的な変化に加え、紙の中で光が散乱することによる光学的な影響も含まれます。
網点の再現には、紙の表面性、インキの状態、温度、湿し水とのバランス、印圧などが関わります。アラベールのような非塗工紙は、コート紙とは手触りや色の見え方が異なり、紙の地色も仕上がりの印象に影響します。
本作では、前日に同じ紙と版で狙いどおりの校正が得られていたため、まず当日の印刷機側の条件を確かめています。実務でも、基準となる刷りと測定値を確認しながら原因を切り分けます。「暑ければ必ず網点が太る」「水や圧を変えれば必ず直る」という一律の処方ではありません。また、刷りたてと乾燥後では見え方が変わることもあるため、比較する照明や乾燥状態にも注意が必要です。
※技術解説は物語中の状況を理解するための一般的な補足です。実際の条件や最適な設定は、印刷方式・用紙・設備・加工内容によって異なります。
