* * *
「止めて! それ、全部ページ順が間違ってます!」
赤坂ゆりの声が、第一印刷の工場に響いた。近くで紙を揃えていた人が顔を上げる。乾燥を終えた刷本を確認台へ運んでいた黄金井大介も、大きな紙を両手に持ったまま振り返った。
「何が〜?」
「何がって、これです!」
ゆりは紙の端を押さえた。まだ本の形をしていないその一枚に、十六ページの小冊子の片面分が並んでいる。町の小さな児童文庫が、開館四十周年の記念に作るものだった。仕上がりはA5判。表紙の古い木造の建物を開けば、読み聞かせを続けてきた人たちの思い出や、子どもたちの絵が出てくるはずだった。
昨日、印刷は無事に終わった。今日は折りと製本へ進む。そう聞いて、仕上がりを見に来たところだった。
ところが、広げた紙では、一ページの隣に十六ページがある。別のところには八。しかも逆さまだ。建物の屋根が下を向き、その隣では子どもの描いた太陽が横になっていた。
「どう見ても事故じゃないですか」
黄金井は紙を見て、それからゆりを見た。ゆりの指の下から、折れそうになった端をそっと引き出す。
「合ってるよ?」
「どこが」
「全部」
「十六の次が一ですよ」
「だから合ってるのよ」
「八なんて逆立ちしてます」
「それも合ってるんだよねぇ」
ゆりは工場長の顔をじっと見た。冗談を言っている顔にも、そうでない顔にも見える。この人の顔から正解を探すのは、あまり効率がよくない。
「ゴルさん、疲れてます?」
「ゆりちゃんに言われたくないなぁ」
背後で、缶の小さく鳴る音がした。
「姉ちゃん。印刷物にはな、広げたときに正しいものと、畳んだときに正しいものがあるんだよ」
振り返ると、四十代後半くらいの男が立っていた。短い髪が少し跳ねている。作業着の胸に「製本課 茶屋」の刺繍。片手には缶コーヒー、もう片方には、なぜかトランプが一枚あった。
「誰ですか?」
「ひどいな。入社して半年もいて、製本課長の顔を知らないのか」
「初めて見ました」
「正解。俺、仕事が速すぎて、だいたい奥でサボってるから」
黄金井が、まだ手にしていた刷本を台へ戻した。
「健ちゃん、新人に余計なこと教えるなよぉ」
「ゴルさん、余計とは何ですのん。後加工は印刷の花ですよ」
「さっきまで休憩室で寝てたの知ってるよ」
「花にも休眠期はあります」
男はトランプを胸ポケットへしまった。缶コーヒーは紙から離れた棚に置く。その動きだけは、言葉よりずっと几帳面だった。
茶屋健。四十七歳。第一印刷の製本課長。
この日、ゆりは初めて、その人の仕事を見ることになった。
* * *
製本課の作業台は、印刷の確認台とは少し違う匂いがした。インキの奥に、切ったばかりの紙の匂いがある。隅には幅の細い紙片が揃えてあり、使い込まれた定規の数字は、真ん中あたりだけ薄くなっていた。
茶屋は刷本を置き、ゆりへ白い紙を一枚見せた。
「これ、何ページの本?」
「十六ページです」
「じゃあ、紙は十六枚いる?」
「八枚。裏と表があるから」
「いいね。じゃあ、大きな紙なら?」
ゆりは台の刷本を見た。茶屋は答えを待たず、白い紙の角を合わせた。
「最初は一枚。裏と表で二ページ分」
半分に折る。指が折り目を一度なぞった。
「一回折ると、四ページ分」
紙の向きを変え、もう一度折る。
「二回で八。三回なら?」
「……十六」
「正解」
小さくなった紙を渡される。薄い紙だったはずなのに、重なった端には、もう本に近い厚みがあった。
「じゃ、開いて。その紙に、本になったとき順番に読めるように番号を書いてみ」
「簡単ですよ」
口にしてから、少しだけ不安になった。紙を広げると、折り目で八つの面に分かれている。ゆりは左上から、一、二、三、四。その下へ五、六、七、八と書いた。
「裏も?」
「その前に、同じ向きで折ってみようか」
さっきの折り目をたどる。表に出た数字を見て、ゆりは手を止めた。見せたかった一が、内側へ入っている。隙間を開いて確かめると、次に見えた数字も順番ではなかった。
「……なんで」
「紙は言われたとおりに折られてるよ」
黄金井が横から覗いた。
「新しい算数の教科書かねえ」
「うるさいです」
茶屋は笑いながら、紙を受け取った。ゆりが強くつけた折り目を指で軽く押さえる。
「本はな、平らな紙の上で順番に並べればいいってもんじゃない」
「でも完成したら順番ですよね」
「だから、完成した姿から逆算する」
茶屋は別の紙を三回折った。今度は本のように持ち、外側から番号をつけていく。折り目で閉じていて見えない面は、紙を少し開いて確かめた。端を切らずに、一つずつ順番を追っている。
ゆりには手つきが速すぎて、途中で分からなくなった。それでも、番号を書くたび、茶屋が必ず紙の向きを確かめるのは見えた。
十六まで書き終えると、茶屋は全部を広げた。
一の隣に十六。ところどころ上下の逆になった数字。ゆりが事故だと思った刷本と、同じ並びだった。
「……わざとだったんですか?」
「面付けっていうの」
「性格悪い配置ですね」
「紙に性格はない」
「これ考えた人、絶対ひねくれてます」
「逆だよ」
茶屋は紙を軽く叩いた。その指の下で、逆さまの数字が小さく揺れた。
「めちゃくちゃ頭いい。大きな一枚から、ちゃんと読める本を作ろうとしたんだから」
* * *
今回の冊子は、表紙も含めて十六ページ。表裏それぞれ八ページ分を刷った紙を、決まった向きに三回折る。そのあと中央を針金で綴じ、背以外の三方を仕上がり寸法に断裁する。
台の上の説明用の紙も、折れば同じ形になる。茶屋はゆりに見える速さで、もう一度折ってみせた。
「第一の術。折る」
一回。
「第二の術。さらに折る」
二回。
「第三の術。もう一丁」
三回。紙の角が、ぴたりと重なった。
「そして仕上げは――」
茶屋はダミーをカッターマットへ置いた。定規を当て、閉じている端を少しずつ切り落とす。刃を収めてから中央を開き、長い腕のついたホチキスで二か所を留めた。
「見本だから、今は切ってから留めた。本番はラインに合わせて工程を組む」
「それ、魔法じゃなくて工作ですよね」
「夢のない新人だな。まずは見てから言って」
差し出された小さな本を、ゆりは開いた。一の次に二。三、四とめくる。どの数字も、読む人の方を向いていた。最後は十六の裏表紙に着く。
「うわ」
もう一度、最初からめくった。さっきまでばらばらの方向を向いていた数字が、何事もなかったように並んでいる。
「本当に本になった」
「だろ?」
「なんか悔しい」
「なぜ」
「さっきまで意味不明だったのに」
茶屋は嬉しそうに笑った。自分が褒められたというより、ゆりが紙の変わり方に驚いたことが嬉しいようだった。

「そこが後加工の気持ちいいところなんだよ。刷っただけじゃ、まだお客さんに渡せない。折って、綴じて、切って。手に取れる形にするのが、こっちの仕事」
黄金井が、台の向こうで腕を組んだ。
「いいこと言ってるけどねえ。健ちゃんは、その工程を早く終わらせてサボりたいだけなんだよ〜」
「効率化と呼んでください」
「昨日も休憩室にいたよね」
「休むところで休んで、何が悪いんですか」
「時間の話をしてるの」
ゆりは笑った。茶屋も笑いながら、使った道具を元の場所へ戻していた。刃の収まったカッターを奥へ置き、番号の見本と刷本を分ける。手元には迷いがない。
その右手の中指だけが、ほかの指より短かった。
先の関節から向こうがなかった。ゆりが気づいたときには、もうその手は別の紙を揃えていた。
* * *
午後、児童文庫の担当者から電話が入った。
「九ページの写真、差し替えられますか?」
ゆりは、机に広げた工程表を見た。印刷済み、と書いた欄に自分で丸をつけている。その隣の製本の欄は、まだ空いていた。
「印刷は終わっていますので、費用と納期への影響も含めて確認します。折り返してもよろしいですか」
電話を切ってから、短く息を吐いた。以前なら、写真一枚くらいと思って、その場でできますと言ったかもしれない。
製本課では、茶屋が折りの見本を確認していた。ゆりは机の端に手をつき、息を整えてから話した。
「九ページの写真を差し替えたいそうです」
「印刷が終わると、直したいところが見つかるんだよな」
「私に言わないでください」
「で、九ページはどこ?」
ゆりは刷本を広げた。一を見つけ、二を探し、その途中で手を止める。向かい側で茶屋が笑っていた。
「何ですか」
「成長する瞬間を見守ってる」
「腹立ちますね」
ゆりは完成見本で九ページの位置を確かめ、別の白い紙を同じ向きに三回折った。重なりを少し開いて九ページに当たる面を探し、印をつける。茶屋が指で支えてくれたところを確かめてから、紙を大きく広げた。
刷本と、印をつけた紙を並べる。
「ここだ」
「正解」
「やった」
「ただし」
茶屋は刷本の裏も見せた。
「一か所直す話でも、その裏に何ページがいるか、何と一緒に刷ってあるかまで確かめる。九ページだけ取り出して、すぽっと交換できるわけじゃないからな」
ゆりは紙の厚みを指先で確かめた。表と裏は、当たり前だけれど離せなかった。
「刷り直しになるんですね」
「そう。直す面の版だけ替える場合でも、新しい紙には両面を刷らなきゃならない。印刷と製本、両方の段取りを見て返事する」
「平らな紙だけ見て考えちゃ駄目なんだ」
「平らな紙を見ながら、頭の中では折り上がった本を見てる」
「やっぱり魔術師じゃないですか」
「ようやく分かったか」
黄金井が、奥から声をかけた。
「健ちゃん、調子に乗るからそのへんで。ゆりちゃん、部数と納期、もう一度確認しよう」
追加費用と翌朝の納品を確認し、文庫の了承をもらった。制作で写真を差し替え、修正箇所を再確認する。必要な版を作り直し、新しい紙で刷り直すことになった。旧版の刷本は、混ざらないよう区分けされた。
電話と確認を終えて製本課へ戻ると、隣の仕事の折り機が動いていた。大きな紙が一枚ずつ入り、奥から小さくなって出てくる。ゆりは仕組みを見ようと、横へ回りかけた。
「茶屋さん、これどこから――」
「止まれ」
声が変わった。ゆりの足が、床の黄色い線の手前で止まる。
茶屋は笑っていなかった。さっきまで少し下がっていた目尻が、まっすぐこちらを向いていた。
「線からこっちへ入るな。見たいなら、そこから見ろ。触るな。覗き込むな。紙が詰まっても手を出すな」
「はい」
答えたあとで、自分が機械の音に声を負けさせまいとしていたことに気づいた。茶屋は声を張っていなかった。それでも、一言ずつはっきり聞こえた。
「止まって見えても、勝手に触るなよ。何かあったら、まず俺を呼ぶ」
ゆりがもう一度うなずくと、茶屋の顔が少し緩んだ。
「どうしても触りたかったら、まず製本課に十年奉公してもらいます」
「長いです」
「八年にまけよう」
「嫌です」
「じゃあ見学だけ」
ゆりは線の外へ半歩下がった。そこからでも、出てくる紙はよく見えた。新聞紙ほどあったものが、いくつかの折り目を持つ小さな束に変わっている。機械の奥へ身を寄せなくても、変わったことは分かった。
* * *
夕方五時を少し過ぎたころ、製本課へ戻ると、文庫の刷り直し分の折りが進んでいた。乾燥と加工に問題がないことを確かめて、ようやく回せた分だった。窓の光は朝より低くなり、台の紙片にも長い影ができていた。
「あと何分?」
ゆりが聞くと、茶屋は時計を見ずに答えた。
「十一分」
「何が?」
「俺がサボり始めるまで」
「もう定時過ぎてますよ」
「じゃあ十一分前からサボってたことにしよう」
入り口で足音が止まった。
「茶屋さん」
藍川玲子だった。茶屋は作業台から顔を上げた。
「はい、社長」
「まだかかりそう?」
「もう終わります。残業で会社が傾く前には帰りますよ」
「無理しなくていいのよ」
「俺が仕事で無理する人に見えます?」
玲子は笑った。その視線が、一瞬だけ茶屋の右手に落ちた。ゆりにも分かるほど短い動きで、茶屋はもっと先に気づいていたようだった。
わざとらしく右手を上げる。
「大丈夫ですって。今日は指、全部あります」
玲子の顔から笑いが消えた。黄金井が低く名前を呼んだ。
「健ちゃん」
「冗談です、冗談。社長、そんな顔したら新人が怖がるでしょ」
「……ごめんなさい」
玲子の声は、機械の音に紛れそうだった。
「謝るところ、一個もないですから」
茶屋は手を下ろした。その言い方だけは、冗談ではなかった。
玲子は何か言いかけ、結局うなずいて工場を出ていった。入り口の向こうで足音が遠ざかる。ゆりは、持っていた工程表を二つに折りかけて、やめた。
「さて、ゆりちゃん。最後の手品、見ます?」
「……見ます」
「そんな顔すんな。葬式じゃないんだから」
「別に何でもないです」
「顔に全部出るタイプだな」
「茶屋さんが出さなすぎなんじゃないですか」
言ってから、ゆりは口を閉じた。茶屋の目から、ほんの一瞬だけ笑いが消えた。けれど次に顔を上げたときには、もう元に戻っていた。
「それ、営業としては褒め言葉ね」
* * *
仕上げに回す前の一折を、茶屋が渡してくれた。
「めくってみ」
表紙は動いた。けれど次を開こうとすると、端がつながっていて指が止まる。力を入れれば破れそうで、ゆりはすぐに手を緩めた。
「まだ本になってない」
「蛹です」
「急に昆虫になりましたね」
「魔法使いは比喩が多いの」
茶屋は受け取った紙を台へ揃えた。
「このあと真ん中を綴じて、天と地と小口を切る。背以外の三方」
「背中は?」
「残す。そこまで切ったら、折り目がなくなるだろ」
ゆりは朝の見本を開いた。真ん中に二つ、金属の針が見えた。折り目だけで一冊がつながっているのではない。気づくと茶屋がこちらを見ていた。
「その針も仕事してるんだよ」
「見えないところで」
「開けば見えるけどね」
綴じを終えた冊子が、仕上げの断裁へ回った。茶屋は手順と仕上がり寸法を確かめる。ゆりは黄色い線の外にいた。機械を操作する茶屋へ声をかけず、手が離れるのを待った。
切り落とされた細い紙が、まとまって脇へ置かれた。茶屋は仕上がった一冊を開き、中央の針とページ順を確かめてから、ゆりに渡した。
「はい。変身完了」
今度は、どのページも開いた。表紙から内側へ、文章と絵が順に続く。端を軽く弾くと、ぱらぱらと乾いた音がした。朝の大きな紙にはなかった音だった。
「すごいですね、これ」
ゆりは九ページで手を止めた。差し替えた写真も、その隣の子どもの絵も、正しい向きで収まっていた。
「誰が考えたんですか?」
「知らん」
「知らないんですか」
「俺が生まれるずっと前から、頭のいい人たちが紙を折って本を作ってた」
茶屋はもう一冊を開き、背の折り目を見せた。
「完成した本を、頭の中で一回ばらす。広げて、裏返して、どこに何ページ置けば元へ戻るか考える。言われりゃ簡単だろ」
「言われれば」
「最初に思いついた人は偉いよな」
「面付けまで考えたんですもんね」
「先人は変態だ」
「さっき頭いいって言ってたじゃないですか」
「紙屋と印刷屋にとって、頭いいと変態はだいたい両立する」
遠くから、黄金井の声がした。
「健ちゃんだけね」
* * *
機械が止まると、製本課は思ったより広かった。音が埋めていた場所まで、床になったような気がした。
ゆりは台に残った損紙を片づけていた。茶屋は帰ったと思っていたが、奥の休憩スペースから缶コーヒーを持って戻ってきた。
「まだいたの」
「茶屋さんこそ」
「俺はサボってただけ」
笑えば、それで済むはずだった。ゆりは手の中の紙を揃えた。角が合っているのを確かめても、まだ台へ置けなかった。
「さっきの、指の話」
茶屋が右手を見た。
「ああ」
「社長、ずっと気にしてるんですか?」
茶屋はすぐには答えなかった。缶を一口傾け、紙のない棚へ置く。中身はもう少ないようだった。
「まあね」
「社長が原因なんですか?」
「違う」
答えは早かった。ゆりは紙の束を台へ置いた。
「昔な。仕事が立て込んで、何日か残業が続いてた。俺も若かったから、早く終わらせるのが格好いいと思ってたんだよ」
茶屋は短くなった指を一度曲げ、また開いた。
「集中が切れてた。今なら、その状態で続けない。でも当時は、自分だけは大丈夫だと思ってた」
「そのとき、社長が?」
「残ってる俺に、無理するなって声をかけに来た。それだけ」
「そのときに事故が」
「起きた」
工場の奥で、誰かがシャッターを下ろし始めた。金属の響きが止むまで、茶屋は待った。
「社長の中では、自分が声をかけたから俺が振り向いた、それで事故になった、って話になってる」
「本当は?」
「声をかけられる前から、俺は危ない状態で仕事をしてた。疲れてるのに続けて、焦って、いつもの確認を飛ばした。社長の一言が原因だとは思ってない」
茶屋は止まった機械へ目を向けた。
「それから、手順も見直した。気をつけます、だけで済む話じゃないからな」
ゆりは昼間の黄色い線を思い出した。茶屋が線の向こうに立ち、自分が手前で止まった、あの数秒を。
「じゃあ、ちゃんと言えばいいじゃないですか」
「百回言った」
「百回?」
「たぶん五十回くらい」
「盛りましたね」
「製本屋は、紙だけじゃなく話も折るんだよ」
「意味分からないです」
茶屋は笑った。ゆりも少し笑ったが、そのあとの言葉は、なかなか見つからなかった。
「人間って、理屈で消えないこともあるだろ」
ゆりは、少しだけ墨田を思い出した。あの人なら、あると答えるのか。それとも、知らんと返すのか。画面に並ぶ短い言葉だけでは、まだ分からないことが多かった。
「だから、社長の前では明るくしてるんですか?」
「それだけじゃないけどな」
「じゃあ何です?」
茶屋は缶に手を伸ばしかけて、やめた。
「暗い顔してたら、みんなが俺の指を見るだろ」
ゆりは右手を見そうになり、視線を台の端で止めた。茶屋が気づいて笑う。
「ほら」
「ごめんなさい」
「いいの。なくなったもんは生えてこない。でも、仕事するたびに、かわいそうな人って顔されるより、またあいつふざけてるって言われる方が楽なんだよ」
「苦しくないんですか?」
「苦しいときはある」
意外なほど、すぐに返事が来た。
「でも、苦しい顔を見せるかどうかは、別の話」
茶屋は完成した冊子を一冊取り、その隣へ、折る前の刷本を置いた。広げた紙には、まだ逆さまの建物がある。
「このままじゃ、お客さんに渡せないだろ」
「まあ、読みにくいですね」
「折って、綴じて、切って。渡すときの形を整える」
冊子を閉じると、文庫の屋根は上を向いた。茶屋は表紙の端を撫でた。
「俺も、自分が人前に出るときの形くらい、自分で決めたいんだよ」
ゆりはうなずいた。分かったと言うには、まだ早い気がした。

しばらくして、茶屋がいつもの調子へ戻った。
「まあ俺の場合、整えすぎて、人格まで印刷事故みたいになってるけど」
「自覚あるんですね」
「あるある」
今度はゆりも笑えた。茶屋は冊子を見本の山へ戻し、空いた缶を持ち上げた。話はそこで終わった。ゆりは残りの紙を揃え、茶屋がさっき置いた束の隣へ重ねた。
* * *
翌朝、児童文庫へ小冊子を届けた。古い木の床は、箱を運ぶたびに少し鳴った。低い本棚の上に手作りの飾りが並び、窓際には、表紙で見たのと同じ木が揺れていた。
担当の女性が、その場で一冊を開く。
「わあ、本になってる」
昨日の自分と同じだ、とゆりは思った。黄金井が箱を床へ置き、隣にいた小学生の女の子へ一冊渡す。女の子は両手で受け取り、すぐにページをめくり始めた。
「私の絵、あった!」
九ページ。差し替えた写真の隣だった。女の子は指で絵を示し、担当の女性へ本を向けた。ページの端が、小さな手の動きに合わせて揺れた。

あの九が、大きな紙のどこにあったか。この子は知らない。知る必要もなかった。探していた絵へ、自分の手でたどり着ければよかった。
ゆりは空になった箱を畳んだ。折り目のところで、段ボールが素直に曲がった。
帰りの車は黄金井が運転した。助手席で、ゆりはスマートフォンを取り出す。一気がオンラインになっていた。
「十六ページの面付け考えた人って天才だね」
少しして、返事が来た。
『急にどうした』
「大きな紙にばらばらにページを置いて、折って、綴じて、三方を切ると本になるの」
『今さらそこに感動してるのか』
「一と十六が隣なんだよ」
『知ってる』
「ページ逆さまなんだよ」
『知ってる』
「すごくない?」
『印刷会社に半年いて、今日初めて知ったお前の方がすごい』
「もういい」
『そうか』
ゆりは画面を消した。窓の外へ目を向けると、信号待ちの歩道に、紙袋を抱えた人が立っていた。袋の底にも、きちんと折り目がある。
「またゲーム友達?」
前を向いたまま、黄金井が聞いた。
「嫌なやつです」
「そうみたいね」
声だけが笑っていた。信号が変わり、車がゆっくり動き出した。
* * *
会社へ戻ると、茶屋は休憩スペースの椅子を三つ並べ、その上で寝ていた。通路から外れた窓の下で、作業着の袖を目にかぶせている。
玲子が入り口から声をかけた。
「茶屋さん」
「起きてます」
目を閉じたまま答えた。
「寝てるじゃない」
「これは製本課独自の品質管理です」
「何の品質?」
「課長の健康」
玲子が呆れたように笑った。昨日のように右手を見ることはなかった。少なくとも、ゆりにはそう見えた。
茶屋は袖を少しずらし、片目を開けた。
「納品どうだった?」
「ちゃんと本になってました」
「当たり前だ」
「魔術師のおかげですね」
茶屋が起き上がった。並べた椅子の一つが、床を短く鳴らした。
「今なんて?」
「二度と言いません」
「もう一回」
「嫌です」
「録音したかった」
ゆりは製本課の壁に立てかけた刷本を見た。まだ折る前の一枚だった。広げたままなら、ページはばらばらで、向きも揃っていない。昨日の自分なら、間違いだと言っただろう。
けれど、その先の形を、今は少しだけ知っている。
茶屋の笑顔を思い出した。黄色い線の向こうで止められたときの顔も、苦しいときはあると答えたときの顔も。同じ人の顔だった。どれか一つを本当だと決めなくてもいいのかもしれない。
「ゆりちゃん」
「はい?」
「感動してるところ悪いけど、その刷本片づけといて」
「自分でやってください」
「俺、魔術師だから。片づけは助手の仕事」
「誰が助手ですか」
製本課に笑い声が響いた。ゆりは刷本を両手で持ち上げた。朝の光が裏から透けて、こちらの文字と向こうの絵が一瞬重なった。
折って。折って。もう一度折って。
綴じて、三方を切れば、誰かの手の中で開く本になる。
茶屋は椅子を元へ戻し、作業台へ歩いていった。次の紙が、もう待っていた。
紙折の魔術師は、その日も何事もなかったように笑っていた。

Track 03 | A Kind of Magic
KEYWORDS
16ページ折り / 面付け / 折り / 中綴じ / 三方断裁
TECHNICAL NOTES
冊子のページは、大きな紙の上で1、2、3……と読書順に並んでいるわけではありません。折り方や綴じ方に合わせ、仕上がったときに正しい順番と向きになるよう配置します。これを「面付け」といいます。
本作は、表紙を含めた16ページを一枚の紙の両面に8ページずつ配置し、所定の向きに三回折る構成です。折り方によって、平らな状態では上下が逆に見えるページも生まれます。16ページの冊子すべてを、この方法で作るわけではありません。
折り上がった紙を、製本の現場では「折丁」と呼びます。今回の冊子は中央を針金で留める中綴じとし、背以外の天・地・小口の三方を断裁して仕上げています。折って切るだけでは、中の紙を一冊に固定できないため、綴じの工程も必要です。実際の加工順や折丁の扱いは、設備と仕様に合わせて決めます。
印刷後に一ページを変更する場合も、そのページだけを簡単に交換できるとは限りません。同じ紙に配置されたほかのページや裏面を含め、製版・再印刷・加工の範囲、費用、納期を確認します。
加工機の安全管理も工程の一部です。見学者は定められた位置を守り、機械や紙詰まりに自分の判断で手を出さず、担当者へ知らせます。
※技術解説は物語中の状況を理解するための一般的な補足です。実際の条件や最適な設定は、印刷方式・用紙・設備・加工内容によって異なります。
