* * *
「これ、金じゃないですよね」
久世美咲は、テーブルの上の校正紙を指した。爪の先が、店名の一文字に触れる。赤坂ゆりも同じ場所を見た。金色だった。少なくとも、金色に見せようとしていることは分かる。黄色に茶色を重ね、中央を明るく、縁を暗くしたグラデーション。モニターでは金属らしく見えたはずの文字が、応接室の明かりの下では、紙にぴたりと貼りついていた。
「……黄土色ですね」
ゆりは正直に言った。隣で営業課長の緑野弘治が目を閉じた。
「赤坂。言い方」
「でも、黄土色です」
「お客さんが先に言ったんだから、そこは同意しなくていい」
「なるほど」
美咲は笑わなかった。紙を押さえた指も動かない。テーブルの向こうでは、白髪を地肌が透けるほど短く刈った老人が腕を組んでいる。湯呑みは二つとも、出したときの場所にあった。久世宗一郎、七十八歳。県内で百年以上続く漆器店『久世漆彩堂』の三代目。その横に座る美咲は孫で、二十九歳。
三年前から店のSNSとオンラインショップを担当し、ほとんど知られていなかった地方の漆器店を、十万人近いフォロワーを持つ店に変えた。今回の依頼は、店舗改装後の再オープン案内状と商品カードだった。黒に近い深い朱色。その上に、金の細い罫線と店名。モニター上のデザインは、美しかった。
しかし紙に刷ると、どこか全部が違った。朱は沈みすぎて見え、金色の線には、期待していた光がなかった。宗一郎が、初めて口を開いた。
「うちの色じゃない」
美咲が小さく息を吐いた。短く切った髪の間から、赤くなった耳が見えた。
「またそれ」
「またじゃない。違うものは違う」
「画面ではこれで合ってるの」
「画面はうちの店じゃない」
美咲がスマートフォンを伏せた。硬い音が一つして、あとは空調の音だけになった。ゆりは、二人が何を見比べているのかさえ、まだ揃っていないことに気づいた。
* * *
久世漆彩堂のSNSを、ゆりは知っていた。仕事で地方企業のアカウントを眺めることがあるからだ。古い工房。漆を塗る宗一郎の手。若い美咲が商品を持って笑う写真。
『祖父から孫へ。百年の色を、次の百年へ。』
そんな文章が添えられている。コメント欄には、『素敵なご家族』『伝統を若い世代が継いでいくの、いいですね』と並んでいた。
だから、ゆりはてっきり仲のいい祖父と孫なのだと思っていた。実際に二人が第一印刷へ来てから、一時間。会話らしい会話は、ほとんどない。美咲が説明する。宗一郎が否定する。宗一郎が何か言う。美咲がスマートフォンを見せる。
「ほら。これがお店のブランドカラーです」
画面には深く鮮やかな朱色が表示されている。RGB値も指定されていた。
「この色を、そのまま印刷してください」
ゆりは言った。
「そのまま、ですね」
「はい。WebもInstagramもショップも全部これです」
宗一郎が鼻で笑った。
「違う」
「だから何が」
老人は小さな箱を開け、柔らかな布をほどいた。出てきたのは、朱塗りの椀だった。窓に向いた側はほの明るく、丸い腹の下では赤が黒に近づいている。天井の明かりが、縁に沿って細く映った。宗一郎は両手で椀を置き、それから布の端を内側へ折った。
「これが、うちの朱だ」
美咲は答えた。
「その朱を、画面でも伝えたくて決めたのが、さっきの色」
「逆だろう」
「何が?」
「店が先だ。画面が後だ」
美咲の眉が動いた。説明しようと開いた口を、一度閉じる。ゆりはスマートフォンと椀の間へ目を戻した。どちらも、相手に見てほしくて持ってきたもののはずだった。緑野が割って入った。
「一度、印刷側で確認します。少しお時間いただけますか」
ゆりは宗一郎に断って椀を借り、布を敷いた箱へ戻した。校正紙はその上に重ねる。急ぎたいのに、廊下の角では自然と歩幅が小さくなった。
* * *
「ゴルさん」
黄金井大介は、止めた印刷機の横でインキ壺を確かめていた。ゆりに気づくと、手を拭きながら確認台へ来た。隣の機械の規則正しい音が、応接室とは別の時間を刻んでいる。
「ゆりちゃん、今度は何」
「金が金じゃない」
「禅問答かなんか?」
「これ」
ゆりは校正紙を見せた。黄金井は一秒見ただけで言った。
「そりゃプロセスの金だからねえ……」
「プロセスの金?」
「四色で金っぽく見せてるだけなのよ〜」
「やっぱり金じゃない?」
「金のインキなんか一滴も入ってないよ」
黄金井は紙を傾けた。
「普通のCMYKで作る金色は、黄色やマゼンタ、黒なんかで明暗を描いて、金っぽく見せてるのよ。紙やニスの艶は出ても、金属特有の光にはならないねえ」
ゆりは、これまで工場で教わったことを思い出した。シアン。マゼンタ。イエロー。ブラック。小さな網点を重ねて、人の目に別の色を感じさせる。
「金の絵、ってこと?」
「そうそう。その絵が必要な仕事もある。ただ、今回は欲しいものが違ったんだねえ」
「じゃあ本物の金色は?」
黄金井は棚を指した。そこには、金、銀と書かれたインキ缶が並んでいる。
「特色ね」
「特色?」
「四版の掛け合わせじゃなく、その色のインキを一色として刷る。金なら金インキ。銀なら銀インキ」
「金が入ってる?」
「本物の金じゃないよ〜。金属顔料を使ったメタリックインキね。四色よりは、ずっと金らしく見えるのよ」
黄金井は金の見本を一枚出した。ゆりが傾ける。明るい。暗い。また明るい。たしかに、さっきの黄土色とは違う。光を受けると、金属らしい反射が見える。けれど、ゆりは少し首をかしげた。
「思ったより、ピカピカじゃない」
「そういうもんなんだよねえ……」
黄金井はあっさり答えた。
「この見本の金は、落ち着いた光り方なのよ。紙の表面やインキの銘柄、刷り方でも変わる。強く鏡みたいに光らせたいなら、箔も候補になるねえ」
「それでも、四色の金とは違う?」
「全然違うよ〜。並べりゃ分かるよ」
黄金井は四色で作った金色と、金インキの見本を並べた。比べると差は明らかだった。四色の方は、明るい黄色と茶色で“金らしさ”を描いている。金インキの方は、光の角度を変えると細かな反射が動く。
「四色が金の絵なら、こっちは金属の入ったインキ?」
「そんな感じ。まず、この見本で欲しい光り方を聞こうか。それで金インキがよさそうなら、使う紙で校正を出す」
「お客さん、満足します?」
「それは聞かないと。見本と本番の紙でも、見え方は変わるからねえ」
ゆりは二枚を重ねかけ、やめた。並べたまま持っていく方が、話ができそうだった。黄金井は漆の椀を持ち上げた。
「それよりねえ……こっちの朱の方が面倒なのさ」
* * *
校正紙の赤は、漆の椀と並べた瞬間に薄っぺらく見えた。赤い。けれど、久世漆彩堂の赤ではない。
「CMYKじゃ無理?」
「どこまで近づくかは確かめるけど、これは広い面に同じ朱を刷る仕事でしょ。特色で合わせる方法もある。ただし、漆の厚みや艶までインキ一色でそっくり、とはいかないよ」
「特色を作る?」
「調肉」
「肉?」
「字は肉だけど、食べる方じゃない。インキを混ぜて色を作ること。調色とも言うねえ」
そこへ白石龍三が通りかかった。黄金井が声をかける。
「龍さん、この朱、特色にする?」
白石は椀と校正紙を見た。一言。
「する」
「即決」
ゆりが言うと、白石はもう作業台へ向かっていた。黄金井が顎で示す。
「ゆりちゃん、調肉見るなら今だよ〜」
* * *
工場の隅の作業台に、白石はいくつかのインキ缶を並べた。色味の違う赤に、黄、黒。脇には透明なメジウムもある。白石はデジタルスケールで少量ずつ量り、台の上へ移した。ヘラを寝かせて押し広げ、返して、また寄せる。固そうに見えたインキが、手首の動きに従って艶のある帯になった。
「レシピあるんですか?」
ゆりが聞いた。黄金井が答える。
「最初の目安はあるけどねえ……あとは現物見ながら詰めるのよ〜」
白石は練ったインキを、使う予定の紙へ薄く引いた。厚く盛ったままの色とは、ずいぶん違う。光源を揃えた確認台に紙と椀を並べ、角度を変えて見る。
「明るい」
黄金井が言う。白石は別の赤を少し足した。練って、引く。前の試料を脇へずらし、配合を書きつける。三枚目になると、ゆりにも違いが見えた。けれど、どれが近いかを聞かれると迷った。紙の朱を見てから椀を見ると、椀の色まで変わった気がする。
「モニターで数字を合わせるのと、全然違う」
ゆりが言った。黄金井が椀を指した。
「何に近づけたいのか、現物で話せるからねえ」
「この椀が正解?」
「今はこれを基準にしてる。ただ、漆と紙は違うものだから、最後はお客さんと紙の上の色を決める。数字も見るけど、それだけでは決まらないのよ〜」
白石がもう一度色を引く。ゆりは椀と紙を交互に見た。
「近い」
白石は首を横に振った。
「まだ」
白石がヘラの先で、ごくわずかなインキを取った。ゆりには、足した量より、足すまでに見ていた時間の方が長く感じられた。もう一度、薄く引く。台の上には、捨てずに残した朱が少しずつ増えていった。

* * *
見本を見た美咲は、まず金インキで確かめたいと言った。緑野が費用と日程を伝え、宗一郎も試作にはうなずいた。数日後、第一印刷の応接室に、新しい本紙校正が置かれた。最初の一枚とは違う。背景の朱は、白石が調肉した特色インキ。店名と細い罫線は、オフセット用の金インキ。美咲は紙を手に取った瞬間、表情を変えた。
「赤、全然違う」
宗一郎も黙って窓際へ持っていった。自然光で見る。少し傾ける。
「朱はいい」
ゆりは、白石にどう伝えようかと思った。そのまま言えばいいだけなのに、頭の中でもう一度、「朱はいい」と繰り返した。美咲は金の店名に指を添えた。
「金も最初のよりずっといい」
四色で作った黄土色のような金とは、比べものにならない。光を受ければ、細かな金属感がある。だが――。宗一郎は紙を傾けたまま、しばらく動かなかった。
「金は、これじゃない」
美咲の顔が曇った。
「また?」
「またじゃない」
「前より金になってるじゃん」
「前より、だ」
宗一郎は、今度は蒔絵のある漆器を取り出した。磨かれた金の線が、窓の光を鋭く返す。紙の金インキにも反射はある。けれど、この器の光り方とは違った。老人は、明るくなった線の一か所を指で示した。
「これを見ろ」
「印刷なんだから同じになるわけないでしょ」
「なら、どこを同じにしたいか、先に聞いてくれ」
美咲が言葉に詰まった。ゆりも、校正紙を揃える手を止めた。金かどうかばかり話して、この人がどんな光を待っていたのか、聞き切れていなかった。
* * *
二人が帰ったあと、ゆりは工場へ戻った。金インキの校正を、黄金井が光に傾けている。
「ダメだったかねえ……」
「朱は大絶賛。金は不合格」
「あの、磨いた金の光ねえ。そこが欲しかったんだ」
「この紙と金インキで、もっとキラッとさせるのは難しい?」
黄金井は少し考えた。
「銘柄や刷り方で差は出る。紙を選んだり、ベタをしっかり出したり。けど、あの蒔絵みたいな反射を求められると……」
「最初に言ってた、箔?」
「うん。もう一度、その見本をちゃんと見てもらう方がよさそうだねえ」
黄金井が席を外してから、ゆりはスマートフォンを取り出した。ゲームの連絡用チャットに、一気がいる。
「ちょっと聞いていい?」
『何』
「金インキで校正したけど、もっと鋭く光らせたいって。箔を提案することになりそう」
『紙は』
ゆりは使っている紙の名前を打った。朱は特色で先に刷る予定だと続ける。客の名前は書かなかった。
『加工屋に現物を見せろ』
「まず箔を決めるんじゃないの?」
『紙と先刷りのインキと、箔の相性がある。細い線もあるなら、版も含めて相談しろ』
「熱と圧で、金の箔をつけるやつだよね」
『そう。ホットスタンプ。フィルムから薄い層を転写する。金インキとは仕組みが違う』
「箔なら、漆器の金と同じになる?」
『また先に同じにしたがる』
ゆりの指が止まった。
『光り方にも色にも種類がある。候補を出して、現物で選んでもらえ』
「うちに箔押し機はない」
『だから加工屋に聞けって言ってる』
「外注ってことね」
『頼んだら終わり、にするなよ。印刷の条件を渡して、向こうに必要なことを聞く。お前らにも仕事は残る』
ゆりは打ちかけていた「了解」を消した。代わりに、どこへ頼むのか、いつ何を渡すのかをメモする。画面に最後の一行が増えた。
『印刷だけで全部できると思うな』
「分かった。ありがとう」
返事はなかった。机の上には、朱の校正紙が残っている。ゆりはその端へ、箔の候補を重ねる場所を空けた。
* * *
「箔の件、黄金井から聞いた」
緑野弘治が工場へ来た。ゆりはスマートフォンをしまい、メモを開く。営業課長は金の校正を手に取った。
「うちの協力先に相談してみる」
「協力先?」
「三光加工。箔押しと型抜きが強いところ」
「加工をお願いする会社?」
「今回はな。向こうから印刷を頼まれる仕事もある。互いに持ってない設備と技術を補ってる」
戻ってきた黄金井も言った。
「うちが箔押し機買って、年に何回使うのって話でもあるしねえ……」
「全部持ってれば最強じゃない?」
「全部の機械を買って、全部の職人を抱えて、全部使いこなせたらねえ……そりゃ最強だよ〜」
「無理?」
「無理というより、意味がない」
緑野は校正紙を机へ置いた。
「お客さんが欲しいのは“第一印刷の設備だけで作ったもの”じゃない。欲しい仕上がりだろ」
ゆりは朱と金を見た。白石が作った朱は、もう十分に強い。だからこそ、金の弱さが余計に見えた。
「じゃあ、金は三光加工にお願いする?」
「まず先方に現物を見てもらう。できるかどうかを決めるのは、そのあと」
「できるって先に言わないんですね」
緑野が笑った。
「お前も少しは学んだな」
* * *
翌朝、緑野とゆりは、白石が刷った朱の校正紙と蒔絵の漆器を持って三光加工を訪ねた。第一印刷より小さな工場だった。けれど中へ入ると、金、銀、赤、青、透明、ホログラム――さまざまな箔の見本が壁一面に並んでいる。担当者はまず紙の名前とインキを確かめた。蒔絵の金を光へ向け、それから棚の見本帳を開く。金色の小さな長方形が、ページの上で一斉に光った。
「鏡みたいに光る金なら、これ。ただ、この朱には少し黄色すぎるかもしれません」
別の一枚。
「こっちは少し赤味のある金。漆にはこっちの方が馴染むと思います」
ゆりが二枚を並べる。同じ“金”なのに違う。
「金にも色あるんですね」
「ありますよ。光り方も違います」
担当者は先刷りの朱を確認した。
「先刷りのインキは十分に乾かしてください。実際の紙で、箔の付きと細い線の出方を試します。箔版のデータも、こちらで確認します」
緑野がうなずき、印刷条件を書いた紙を渡した。担当者が試作の日程を書き込む。二人の話は早いのに、決めずに飛ばしているところはなかった。ゆりは見本帳を閉じず、二つの金をもう一度並べた。

工場を出ると、ゆりが言った。
「緑野さん、ずいぶん仲いいですね」
「長いからな」
「いつもうちが頼むんですか?」
緑野は首を振った。
「先月は向こうから化粧箱の二色刷りを頼まれた。うちの機械が向いてたから。今度はこっちが箔を頼む。ただそれだけ」
「持ちつ持たれつ?」
「仕事は一社だけでできてるように見えて、実際はそうじゃないものが多い」
ゆりは三光加工の工場を振り返った。看板に『印刷』の文字はない。それでも、今作っている印刷物を完成させるために欠かせない場所だった。
* * *
その日の午後、美咲へ箔の候補と試作の予定を伝えると、受話器の向こうで少し間があいた。
「祖父と、また揉めました」
ゆりは開いていた予定表から目を上げた。美咲はまだ何か言いそうだったので、受話器を持ち直した。
「今度は何で?」
「金じゃなくて、SNS」
「いつもの」
「いつものです」
美咲は少し笑った。それから声を落とした。
「私、おじいちゃんが新しいこと全部嫌いなんだと思ってたんです」
「違った?」
「今日、売上の数字見せたら『知ってる』って言われた」
「知ってたんですね」
「店に来る若いお客さんの名前まで、結構覚えてた」
「見てたんだ」
「はい。でも、認めたら負けみたいな顔するんですよ」
電話の向こうで、美咲が息を吐いた。
「私も同じだったかも」
「何が?」
「昔のやり方を認めたら、私がやってきたことが否定される気がしてた」
ゆりは、テーブルに伏せられたスマートフォンを思い出した。宗一郎の椀も、美咲の画面も、あのときは別々の方を向いていた。受話器の向こうで小さく戸が鳴る。美咲は誰かに「あとで行く」と答え、それから話を続けた。
* * *
翌日、美咲は三つの漆器を持って第一印刷へ来た。新しく作られたもの。十年ほど前のもの。五十年以上前のもの。同じ店の器でも、色も艶も少しずつ違う。美咲は一つずつ布から出し、ぶつからない間隔を空けて並べた。
「昨日、工房でちゃんと見てきました」
「おじいちゃんと?」
「二時間半」
「長い」
「途中で帰りたくなりました」
けれど美咲は笑っていた。
「で、どれを正解にするんですか?」
ゆりが聞く。美咲は十年ほど経った器を指した。
「これ」
「一番古いやつじゃなくて?」
「古いものだけが本物じゃないから」
ゆりは少し驚いた。
「おじいちゃんの色をそのままコピーするだけなら、私がいる意味ないでしょう。でも、画面の色を押しつけるだけでも違った」
「じゃあ、間を取った?」
「違う」
美咲は首を振る。
「今の久世漆彩堂の色を作るの」
白石が呼ばれ、新しい基準の器を見た。前の配合記録に目を通し、一度うなずく。今度は、少し変えた配合をいくつか作った。使う紙へ薄く引き、乾かして、揃えて見る。美咲も確認台の横に立った。工場の音に負けないよう、最初の一言だけ少し声を張った。
「もう少しだけ赤く」
白石が調整する。
「少し明るい」
また調整する。何度目かで、美咲が言った。
「これ」
白石も少し離れて見る。
「これで校正する」
黄金井が配合を記録した。
「特色名どうします?」
「久世朱」
「そのまんまだねえ……」
「そのままでいい」
美咲が笑った。黄金井が記録の上に、その三文字を書いた。美咲はまだ試料を見ていた。スマートフォンを取り出す代わりに、宗一郎にも見せる一枚を選び、乾いた端をそっと持った。
* * *
朱の校正と、三光加工の箔押し試作が揃った。美咲と宗一郎は同じ明かりの下で両方を確かめ、緑野は金額と納期、決まった仕様を二人と確認した。朱は面で刷り、その上へ箔を重ねる。使う紙とインキで、付き具合も確かめてある。本番は、まず第一印刷で久世朱を刷った。白石がインキ壺へ調肉した朱を入れる。金の店名も罫線も、まだない。紙の上には、久世朱の広い面がある。試し刷り。
一枚目。深い朱。美咲が選んだ、今の久世漆彩堂の色。宗一郎は自然光で見た。長い沈黙のあと、短く言った。
「いい」
美咲が祖父の顔を覗いた。待っていた返事が短すぎて、続きを探しているようだった。
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「たとえば『お前が選んだ色も悪くない』とか」
宗一郎は面倒そうに紙をもう一度見た。
「お前が選んだ色も悪くない」
「言わせた感すごい」
ゆりは笑った。その横で白石が言った。
「刷れるなら、それでいい」
「白石さんまで」
朱の本刷りが終わると、十分に乾燥を確かめてから紙は梱包された。箔押し用の指示と、確認済みの見本も一緒に三光加工へ運ばれる。完成の途中で、第一印刷の外へ出ていく。以前のゆりなら、それを少し不安に思ったかもしれない。今は違った。この先を、自分たちより上手くできる人がいる。だから渡す。それだけだった。
* * *
後日。三光加工から戻った箱を、黄金井が開けた。ゆりは一枚を取り上げて、声を失った。久世朱の上に、金の細い罫線が走っている。店名も金。紙を傾ける。光が走った。金インキのときとは違う。細い線の輪郭を保ったまま、一瞬だけ強く明るくなる。指を少し戻すと、光も戻った。ゆりは同じ動きを二度繰り返し、それから、折らないように紙の端を持ち直した。
「これ、強い」
黄金井も一枚取った。
「やっぱり箔は箔だねえ……」
そこへ白石が来た。朱と金の境目を見る。指先で紙の端を持ち、何度か角度を変える。緑野が聞いた。
「どうです?」
白石はしばらく答えなかった。やがて言った。
「いい仕事だ」
黄金井が眉を上げる。
「龍さんが他所の加工褒めるの、珍しいねえ……」
「いいものはいい」
白石は金の線を指した。
「朱も負けん」
ゆりは、その言い方が妙に気に入った。金が朱に勝つのではない。朱が金に勝つのでもない。光っていないときにも、朱はそこにある。傾けると、金が細く浮き上がる。ゆりは、三光加工で見本帳を開いた担当者の手を思い出した。箱を閉じる前に、緑野が電話をかけた。
「届きました。いい仕上がりです」
白石は聞こえていない顔で、もう一枚を光へ向けた。
* * *
納品の日。美咲はカードを手に取ると、まず窓際へ行った。傾ける。金が走る。
「……これ」
もう一度傾ける。
「これです」
今度は迷わなかった。宗一郎も隣に立つ。しばらく見てから言った。
「派手だな」
美咲がむっとする。
「また文句?」
「文句じゃない」
宗一郎は朱の部分を指した。
「これくらい金が強くないと、この朱には負ける」
美咲が一瞬、黙った。
「おじいちゃんの朱だからね」
宗一郎が首を振る。
「違うだろ」
「え?」
「これは、お前が選んだ久世朱だ」
美咲は祖父を見る。宗一郎はカードから目を上げない。
「俺なら、もっと黒くした」
「じゃあやっぱり嫌なんじゃん」
「嫌ならいいとは言わん」
少し間があった。宗一郎はカードの角を、親指で一度なぞった。
「今の店なら、これでいい」

美咲は何も言わなかった。祖父からカードを受け取り、窓際の明るいところへ置いた。スマートフォンを構えるまでに、少し時間がかかった。一枚。画面を見る。首をかしげる。
「箔の光、全然写らない」
宗一郎が言う。
「なら、店で見てもらえ」
美咲は笑った。
「それ、採用」
* * *
再オープンの日。久世漆彩堂のSNSには、新しいカードの写真が上がった。画面の中の金は、現物ほど強く光っていない。投稿文にはこう書かれていた。
『写真では伝えきれない金の光です。店で、カードを傾けて見てください。』
その下には、もう一枚写真があった。工房で宗一郎が漆を塗り、その横で美咲が何かを聞いている。宗一郎は笑っていない。美咲もカメラを見ていない。以前の“仲良し祖父と孫”の写真より、ずっと地味だった。ゆりは店で本人たちに会った。
「この写真、珍しいですね」
「おじいちゃんが『笑うまで撮り直すな』ってうるさいから」
宗一郎が言う。
「いつも笑っとらんのに、笑った写真ばかり出すなと言っただけだ」
「でもSNSは笑顔の方が伸びるんだよ」
「なら笑ってる日は笑ってる写真を出せ」
美咲が一瞬考えた。
「……それもそうか」
宗一郎も続けた。
「ただ、投稿はやめるな」
美咲が目を丸くした。
「え?」
「お前の投稿見て来た客が、今日も三人いた」
「数えてたの?」
「客の話は聞く」
美咲は笑った。宗一郎はそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。今度、美咲はスマートフォンを向けなかった。ポケットに入れたまま、祖父と同じ方を見た。入口で、新しい客が傘を畳んでいた。
* * *
店の中央には、完成したカードが置かれていた。客の一人が手に取り、ゆっくり傾ける。
「きれい」
金の線が店の照明を拾った。その下の朱は、窓際で見たときより少し暗い。ゆりは隣の椀を見た。カードと同じものには見えない。それでも、二つを並べたときの感じは、最初の校正紙とは違っていた。
「写真、見て来たんです」
客がそう言うと、美咲が顔を上げた。宗一郎は棚から器を下ろし、手に取れるところへ置く。美咲が投稿の話をして、宗一郎が椀の持ち方を見せた。説明が一度重なり、美咲が笑って先を譲る。次は宗一郎が黙った。ゆりは、二人の間を行き来する客の目を見ていた。最初に応接室で向かい合っていたときとは、聞こえてくる声の間隔が違う。
カードの裏には店の案内と、オンラインショップへつながるQRコードがある。客はそこも確かめ、カードを鞄へしまった。金の光は見えなくなったが、この紙の仕事が終わったわけではなさそうだった。ゆりも一枚もらった。朱を刷った白石の手と、箔の見本を並べた別の工場の手。どちらも、この小さな紙に触れている。全部を自分たちで作ったわけではないのに、手渡せることが嬉しかった。
入口で振り返ると、美咲が宗一郎に何かを尋ねていた。老人はまた、少し難しい顔をしている。美咲は急かさずに待っていた。
ゆりはカードを一枚、光へ傾けた。朱は静かに深く、金は鋭く光った。
二つはまったく違う。
だからこそ、きれいだった。

Track 05 | True Colors
KEYWORDS
特色 / 調肉 / メタリックインキ / 金インキ / 箔押し
TECHNICAL NOTES
一般的なCMYKインキでは、黄色や茶色の明暗で金らしい外観を描けますが、金属顔料に由来する反射は得られません。メタリックな金インキは金属顔料を含み、見る角度によって光り方が変わります。その輝きはインキの種類、紙、刷り方などに左右されます。
今回採用したのは、熱と圧力で転写するホットスタンプ方式の箔押しです。金色の箔には、着色層とアルミニウムの蒸着層などを組み合わせたものがあり、金色だから純金とは限りません。光沢の強いもの、艶を抑えたものなどがあり、金インキとの優劣ではなく、欲しい表現に合わせて選びます。
特色インキは、既製品のほか、複数のインキを調合して作ることもできます。この作業を調肉、または調色と呼びます。現物を参考にする場合でも、漆器と紙では素材も艶も違います。用紙や光源、乾燥後の色を確かめ、紙の上でどの色を目指すか合意し、配合と見本を残します。
箔押しでは、紙、先刷りのインキの乾燥状態、箔の種類、線の細さなどを加工会社と確認します。先刷りの上に箔を重ねるか、抜きを設けるかも一律ではありません。実際の材料で試作し、必要な費用と納期を含めて仕様を決めます。
※技術解説は物語中の状況を理解するための一般的な補足です。実際の条件や最適な設定は、印刷方式・用紙・設備・加工内容によって異なります。
