紙とインクのライナーノーツ 第10話|Communication Breakdown(前編)

印刷小説「紙とインクのライナーノーツ」

* * *

午後十一時四十三分。

赤坂ゆりは、自宅の机に紙を広げていた。飲みかけのマグカップを奥へ押すと、底に貼りついた付箋が一枚、机に残った。

『外部デザイナー入稿チェック項目』

その下には、すでに二十六個の項目が並んでいる。仕上がりサイズ、塗り足し、画像解像度。書き出しだけなら、すらすら出てきた。

RGB/CMYK、特色、フォント、リンク画像、オーバープリント。透明効果、総インキ量、小さい黒文字、細線。折り位置の下へ断裁位置を書き、中綴じ、箔押し、表面加工と続ける頃には、行の間隔が狭くなっていた。

書けば書くほど増える。

「……無理」

ゆりはペンを置いた。

その日、第一印刷では三件の仕事が途中で止まった。一件目は画像リンク切れ。二件目は塗り足し不足。三件目は、三つ折りの折り位置に重要な文字がかかっていた。

青原肖子は、営業から回ってくるデータ修正だけで夕方まで潰れた。

黄金井大介は、印刷予定がずれたせいで機械の刷り順を二度組み替えた。

茶屋健は、予定していた加工が夕方にずれ込み、

「俺の一時間はどこへ消えたのかね」

と本気で怒っていた。片付けかけた道具を、もう一度作業机に戻した手つきが忘れられない。

藍川玲子は営業会議で、

「同じようなトラブルを何度繰り返せば気が済むのかしら」

と言った。そして、なぜかゆりが「何か考えます」と言ってしまった。

だから考えている。でも、考えるほど分からなくなる。

全部を事前に確認すればいい。営業がもっと印刷を知ればいい。外部デザイナーが正しい入稿方法を全部覚えればいい。青原のチェックリストをもっと細かくすればいい。

そうすれば事故はなくなる。理屈では。

ゆりは二十七個目を書こうとして、手を止めた。

ゲームを起動すると、『ゆりぞう』が街に現れた。机の紙を少し脇へ寄せる。数秒後、『イッキ』からチャットが飛んできた。

『遅い』

「仕事」

『また?』

「相談」

『嫌だ』

「印刷トラブル減らす方法」

しばらくして、ゲームの通話がかかってきた。

『文字で説明するの面倒。話せ』

ゆりは返事をしかけて、口を閉じた。
ヘッドセット越しの声になにか聞き覚えがある。

しばらく考えていると、工場でポスターを持っていた男性の顔が重なった。

「ねえ。もしかしてさ、イッキって墨田さん?」

今度は向こうが黙った。

『なんで知ってる』

「この前、第一印刷に来たでしょ。深瀬町のポスター、見てた」

『……あの営業、お前か』

「赤坂ゆりですけど」

『ゆりぞうって、そのまんまかよ』

「イッキもじゃん」

ゆりは椅子の背にもたれた。あのとき、両手で紙の端を持っていた人。いつも画面の中で隣にいる相手が、少し前には同じ工場に立っていた。

「先に言ってよ」

『今、分かったんだろ。お互い』

「そうだけど」

『で、相談は』

「結局聞いてくれるんじゃん」

『三十秒で』

「短っ」

ゆりは今日一日のことを話した。青原の残業、印刷の段取りの変更、加工へのしわ寄せ。外部デザイナーに、もっと入稿のことを知ってほしいという話まで来ると、三十秒はとっくに過ぎていた。

最後に、机の二十六項目を読み上げかける。

墨田は途中で止め、数秒黙った。ヘッドセットの向こうで、何かを机に置く音がした。

『ゆりぞう』

「はい」

『お前、頭悪いな』

「相談相手として最低」

『お前だけじゃない。第一印刷全員』

「なんで」

『解決策が“ちゃんとやる”しか出てこないから』

「だって全部チェックすれば事故減るでしょ」

『減るよ。お前ら全員が印刷の全工程を完璧に理解して、すべての条件を事前に確定して、例外が一個もなければな』

「じゃあそれで」

『無理だって言ってんだよ』

「じゃあどうするの」

墨田は、呆れたように言った。

『話せ』

「誰と?」

『全員と』

「それ答えになってない」

『なってる。印刷なんて条件で答えが変わる仕事なんだから、知らないことを全部暗記して解決しようとする方がバカなんだよ』

ゆりは黙る。

ペンを持ち直したが、何も書けなかった。自分の紙には、確認するものばかりが並んでいる。確認を頼む相手の名前は、一つもなかった。

墨田は続けた。

『知らないなら聞く。決まってないなら相談する。後工程に条件を伝える。勝手に分かったつもりで次へ回さない』

「……それだけ?」

『それができてないから止まってるんだろ』

そして、少し間を置いて言った。

『コミュニケーションの仕事のくせに、コミュニケーションでトラブってんの、頭悪すぎるだろ』

ゆりは言い返せなかった。

通話が切れたあとも、ゆりは二十六項目の紙を見ていた。

話せ。たったそれだけ。でも、誰と、いつ話せばいいのか。

ゆりは会社のメールを開き、その日差し戻した三件を見返した。

『塗り足しが不足しています』

『画像リンクが切れています』

『折り位置と文字位置をご確認ください』

どれも、データが完成してから送っている。

別の案件も開いた。同じだった。

第一印刷が外のデザイナーと印刷の話を始めるのは、たいてい入稿されたあとだ。データができ上がってから、ここが違う、そこが足りないと言う。

「……遅いのかな?」

会社案内の仕事で、緑野がまだ何も決まっていない段階から客に話を聞いていたのを思い出した。

誰に。何を。何のために。

あの時は、作る前から話していた。

外のデザイナーにも、完成してからではなく、途中で聞いていいと伝えられたら。

でも、相談してくる人を待っているだけでは、今と変わらない。

「印刷会社に途中で聞いていい」と知らない人には、そもそも届かない。

ゆりはチェックリストの余白に書いた。

『作る前に話す』

その下に、少し迷ってもう一行。

『勉強会? セミナー?』

* * *

翌朝、ゆりは玲子の机へ、昨夜の紙を持っていった。

「社長。昨日、墨田さんに相談したんです」

「連絡先、交換していたの?」

「ゲームの相手だったんです。前から一緒にやってて。昨日、話していて、あの墨田さんだって分かって」

玲子は手にしていた書類を置いた。

「あら。そんなところでつながっていたのね」

「私もびっくりしました」

ゆりは昨夜の言葉を伝えた。もちろん、『頭悪すぎる』の部分も含めて。

玲子は困ったように笑った。

「墨田さんらしいわね」

「腹立ちますけど、なんか分かるんです」

「何が?」

「私、全部覚えればいいと思ってました」

「全部って?」

「印刷のこと全部です」

玲子は笑った。

「無理よ」

「社長まで」

「先代だって全部は知らなかった」

ゆりは少し驚いた。

「先代も?」

「知ってる人に聞いてたわよ。紙なら紙屋、加工なら加工屋、インキならインキ屋。分からないことを分からないまま進める人じゃなかった」

玲子は、ゆりの紙の端を押さえた。余白の「作る前に話す」の文字に目が止まる。ゆりはそこへ指を置いた。

ゆりは昨夜のメモを見た。

「それで、ひとつ思いついたんです」

「何を?」

「入稿されてから直すんじゃなくて、作る前に一回話せるようにした方がいいんじゃないかって」

玲子が少し考える。

「相談会みたいなもの?」

「最初はそう思ったんです。でも、それだと相談していいって知ってる人しか来ない気がするんです」

「じゃあ?」

「勉強会とか、セミナーとか。正しい入稿方法を全部覚えてもらうんじゃなくて、どこで誰に聞けばいいかを先に知ってもらうんです」

玲子はゆりのメモを見た。

「それなら、やってみましょう」

「いいんですか?」

「やってみないと分からないでしょう」

「やりたいです。ただ、私だけだと知識が足りない」

「青原さん?」

「青原さんの説明、途中でついていけなくなるんです」

開いていたDTP室の扉の奥から、

「聞こえています」

という声がした。

「すみません!」

玲子が笑う。

「じゃあ誰?」

ゆりは少し迷ってから言った。

「墨田さんに、お願いできませんか」

玲子は、もう一度メモへ目を落とした。

「講師として?」

「はい。外部コンサルというか」

「本人は?」

「まだ聞いてません」

「まず赤坂さんから聞いてみて」

「断ると思います」

「でしょうね」

「だから社長からお願いしてもらえません?」

「まずは赤坂さんからお願いしてみましょう」

玲子はまず墨田へ電話をかけ、仕事の相談でゆりに代わることを告げた。それから、受話器を渡した。

* * *

墨田は断った。電話の向こうで即答した。

『嫌だ』

ゆりは玲子を見て、「ほら」と口だけ動かす。玲子は微笑んだまま、話を続けるよう手で促した。

「仕事としてお願いしてるの!」

『もっと嫌だ』

「報酬も含めて、仕事として相談したいんだけど」

『金の問題じゃない』

「じゃあ何の問題?」

『面倒くさい』

ゆりが返事に詰まると、玲子が受話器へ手を伸ばした。ゆりから受け取り、静かに言う。

「赤坂さんだけで一度やってみたら?」

電話の向こうが静かになる。

『……失敗するだろうな』

「そうかもね」

「社長!」

『DTPの人にやってもらえばいいんじゃないですか』

玲子がその言葉をゆりへ伝えると、ゆりは思わず口を挟んだ。

「青原さんに全部説明してもらったら、時間が足りなくなります」

DTP室から、また声がした。

「内容次第です」

玲子は笑いをこらえ、電話の話へ戻った。

「墨田さん。今回は社内も一度見てみてほしいの」

『社内?』

「外部デザイナーの入稿トラブルが増えてる。でも、どうも外だけの問題じゃなさそうなの」

墨田が少し黙った。

「一度、会社全体を見て。それから外向けの内容を考えてほしい」

『コンサル料、高いですよ』

玲子は笑った。

「元社長さんが言うと、ずいぶん現実味があるわね」

『仕事なんで』

「お願い」

長い沈黙。

『一日だけ』

玲子がうなずいたのを見て、ゆりが受話器を代わってもらった。

「セミナー本番も」

『聞いてない』

「講師二人で」

『勝手に増やすな』

「私、通訳します」

『何の』

「墨田語の」

電話が切れた。

玲子が言う。

「たぶん来るわね」

「分かります?」

「まず、日程を確かめましょう。講師の話も、ちゃんと返事をもらわないとね」

その日のうちに、訪問日と相談の範囲、費用が決まった。セミナーへの登壇については、社内を見てから改めて相談することになった。

* * *

三日後の月曜日。

墨田は第一印刷へ来た。スーツでも作業着でもない。黒いシャツに、ノート一冊。

青原の机には、プリフライト――印刷前のデータ確認――の項目をまとめた資料が四十七ページ。黄金井は印刷事故の見本をファイルに入れ、茶屋は折り見本を十種類用意していた。

机の上に集まった紙を前に、墨田のノートだけが薄かった。

墨田はそれらを一度見て言った。

「全部しまって」

青原が顔を上げる。

「なぜですか」

「まだ講習しないから」

黄金井が聞く。

「じゃあ何するんです?」

「仕事見る」

墨田は営業部へ行った。

緑野の机の前に座る。

緑野は隣の椅子を引いた。ゆりも手帳を開く。青原たちは、用意した資料をひとまず脇へ置いた。

「直近で入った案件、一個見せて」

緑野がファイルを出す。

「会社案内。表紙込みでA4、十六ページ、中綴じ、三千部です」

「紙は?」

「表紙はマットコートの四六判135キロ、本文は90キロです」

「色?」

「両面とも四色です」

「中綴じ以外の加工は?」

「ありません」

「納期?」

「今週金曜です」

「誰が決めた?」

「客先の希望です。金曜に間に合わせると返事しました」

「製本に納期確認した?」

緑野が止まる。

「……まだです」

緑野は予定表へ手を伸ばしかけて、止めた。いつもの十六ページだと思って受けた。その「いつもの」を、茶屋とは確かめていなかった。

「工場長、工場の段取りは?」

黄金井が答えた。

「印刷予定はこれから」

「DTPはデータがいつ入るか知ってる?」

青原が言う。

「水曜予定と、営業から聞いています」

墨田は緑野の予定表へ目を落とした。

「今日月曜」

「はい」

「データが水曜に完全な状態で来る根拠は?」

「……先方の予定を、そのまま受けています」

「水曜に不備があったら?」

「木曜には直してもらうつもりで」

「印刷は?」

「木曜か金曜です」

「製本は?」

緑野が黙った。

墨田が言った。

「金曜納品」

「はい」

「乾燥と製本、梱包、配送は、どこに入ってる?」

茶屋がお手上げと言わんばかりに答える。

「……聞いてない」

墨田はノートに一行書いた。責める声ではなかった。誰も書き込んでいない時間が、予定表の上に残った。

緑野は納品先までの時間を確かめ、茶屋と黄金井へ予定表を回した。客先への返事も、今日中に詰め直すと言った。

次の案件では、緑野がポスターの仕様書を開いた。

「このポスター、特色?」

「はい」

「誰が特色に決めた?」

「デザイナー」

「印刷前に色見本ある?」

「まだ」

「企業色?」

「そうです」

「誰が正解持ってる?」

「……客先だと思います」

「聞いた?」

緑野が苦笑した。

「まだ」

墨田はまた一行書く。

ゆりは横で、質問を手帳へ書き留めていた。紙も色も納期も、欄は埋まっている。けれど「誰が確かめたか」を聞かれると、ペンが止まる。

専門知識の講習どころか、墨田は何も教えていない。ただ質問している。でも質問されるたび、今まで見えなかった穴が出てくる。

* * *

次はDTP室。窓際の机に、開きかけの折り見本が置いてあった。青原は資料の束を脇へ寄せ、モニターを墨田の方へ少し向けた。

墨田が青原に聞く。

「今、一番止まってる案件は?」

青原はモニターを切り替えた。

「この飲食店メニューです。元データでの入稿です。RGB画像が二十三点。社内の解像度基準を下回るものが七点。リンク切れ二点。仕上がりサイズとトンボ位置も一致していません」

「営業に何を返した?」

「確認事項と不備を、一覧で返しています」

「用途聞いた?」

青原が止まる。

「用途?」

「卓上で手に取る? 壁に貼る? 持ち帰り?」

「A3を二つ折りにして、席で見るものです」

「画像、全部大きく使う?」

「いいえ」

「不足してる七点、実効解像度は?」

青原は配置後の解像度を表示した。

「確認できている画像では、最低で246ppiです」

「その写真、何?」

「料理のサムネイル。横三十五ミリ程度」

「そのままじゃ絶対ダメ?」

青原が少し考える。

「品質基準次第です」

「客はどこまで求めてる?」

「聞いていません」

「じゃあ、必ず直すものと、見本を見て相談するものを分けよう。一覧だけだと、相手は全部を探し直すかもしれない」

青原の表情がわずかに変わる。

青原は一覧を開き直した。リンク切れの行と、解像度の行に、同じ印がついていた。

墨田は続ける。

「RGBも同じ。RGBだから即アウトじゃない。誰が、どの条件で変換して、誰が色を確かめるか。そこを決めずに進めるのが危ない」

青原は小さくうなずいた。

「技術的には同意します」

「技術的じゃなくても同意しろ」

「対人表現については留保します」

ゆりが笑いそうになる。

墨田は次のデータを見せてもらった。

「これ、巻き三つ折り?」

「はい」

「製本に折り位置確認した?」

「営業指定です」

「製本は?」

茶屋が後ろから画面を覗き込み、肩をすくめた。

「まだ俺まで来てませんよ」

墨田はゆりを見る。

「ゆりぞう」

「はい」

「外部デザイナー以前に、社内で完成してるな」

「何が?」

「Communication Breakdown」

ゆりは笑いかけて、やめた。青原の画面には、まだ折っていない紙が広がっている。茶屋はその先の、紙が重なるところを見ていた。

* * *

工場へ移ると、黄金井が照明台の上を空けた。

「データの話なら青原ちゃんに言ってくれます?」

「印刷の話」

「じゃあ何なんです?」

墨田は、朝から確認待ちになっていた冊子の刷り見本を、断ってから手に取った。

「これ何で止めた?」

「小さい黒文字が四色なんだよねえ……」

「誰に返した?」

「営業」

「何て?」

「K100にしてもらって、って」

「理由は?」

「見当ズレるからねえ……」

「それ、営業は理解した?」

黄金井が緑野を見る。

緑野が苦笑する。

「黒を直すということは。ただ、最初は大きな見出しの話だと思っていました」

「どこの黒か、伝わってなかった?」

「白石さんに現物を見せてもらって、小さい本文だと分かりました」

墨田が黄金井を見る。

「理由が常識でも、同じ場所を見てるとは限らないんですね」

「まあねえ……」

「そのまま外へ『直してください』って返したら、同じことが起きませんか」

黄金井は黙った。

白石が機械のそばから言う。

「言っても仕方ない」

墨田が振り返る。

「白石さんは、何が一番困りますか」

「無茶」

「具体的に」

「画面の色と同じにしろ。紙変えても同じにしろ。昨日と同じ設定で同じにしろ」

ゆりは、潮目を指して「違う」と繰り返した日の自分を思い出した。

「私も、伝えたつもりになってました……」

白石が続ける。

「客が知らんのは仕方ない」

墨田が笑った。

「そこ、ちゃんと分かってるんですね」

白石は不機嫌そうに言う。

「知らん奴に言っても色は合わん」

「名言」

「勝手に使うな」

墨田はノートに書いた。

* * *

製本課では、止めてある折り機の横で茶屋が待っていた。通路側の作業台に見本を置き、ゆりたちをそちらへ呼ぶ。紙の端に、細い折り筋が何本も光っていた。

「俺んとこは分かりやすいよ」

「何が?」

「切る、折る、綴じる。それだけ」

墨田は、過去の不具合見本から巻き三つ折りのチラシを一枚取った。

「これ、何が問題?」

「内側の面幅」

「誰が決めた?」

「デザイナー」

「営業は?」

「そのまま来た」

「DTPは?」

「そのときは折りの仕様まで確かめてなかった」

「誰も製本に聞かなかった?」

「俺んとこ来た時には印刷済み」

茶屋が内側の面を折り込んだ。先がつかえ、紙がわずかに浮く。指で押せば閉じそうに見える。そのわずかな浮きが、束になると困るのだと言った。

墨田は浮いた紙の端を見た。

「完成してるじゃん」

「何が」

「事故の仕組み」

茶屋は笑いかけて、見本を机に戻した。

「だろ?」

「笑うな」

墨田は折り機を見る。

「加工で一番嫌なのは?」

「印刷が遅れること」

「データじゃない?」

「普段、元データは直接見ねえもん。こっちに回ってくる頃には紙になってる」

ゆりは、青原の机に残っていた不備一覧を思い出した。リンク切れもRGBも、茶屋のところへは紙として来る。その修正で一日遅れたことだけが、最後の工程へ残る。

茶屋が続ける。

「金曜納品なら、俺に金曜朝紙持ってくるな。それだけ」

「それ、営業に言った?」

「何回も」

緑野が言う。

「聞いてる」

「聞いてるのと予定に入れるの違うぞ」

緑野は自分の予定表に、製本へ渡す時刻を書き込んだ。金曜納品の丸より、その手前の小さな数字の方を、ゆりは長く見た。

墨田がゆりを見る。

「な?」

「はい」

「コミュニケーションしてるつもりでも、伝わってない」

「……はい」

「一番厄介なやつだな」

* * *

一日が終わるころ、会議室の窓は暗くなっていた。工場から戻った人たちが、紙の束や手帳をそれぞれの前へ置く。

墨田はホワイトボードに一本の線を引いた。

営業、企画、デザイン、DTP、製版、印刷、加工、納品。

書いた工程の間に、赤い丸をいくつも付けていく。ゆりは、自分の席から製本課まで歩いた道を思い返した。こんなに短い線に収まる距離なのに、今日初めて聞いたことがいくつもあった。

「これ何だと思いますか?」

玲子が聞く。

「事故ポイント?」

「違います」

墨田は答えた。

「会話が必要な場所」

青原がホワイトボードを見る。

「ほぼ全部ですが」

「そうだよ」

「ではチェックリストは?」

ゆりが聞く。

「いる。でも補助だね」

「補助?」

「チェックリストって、知ってる事故を拾う網なんだよ」

墨田はペンを置いた。

「必要な画像解像度は、使う大きさや印刷の条件で変わる。RGBの扱いは、受け取る側の工程で変わる。折り方が変われば、同じ三つ折りでも作り方が違う。チェックする前に、決めておくことがある」

黄金井がうなずく。

墨田は続ける。

「だから、項目を全部埋めれば、どんな仕事でも事故がなくなるってわけじゃないんです」

「じゃあどうするの?」

玲子が聞く。

「分からないところを、黙って次へ渡さないこと」

会議室が静かになる。

「決まってないなら、決まってないと言う。分からないなら聞く。自分の部署で答えられないなら、答えられる人を入れる。誰がいつまでに確かめるかも、そこで決める」

緑野が言う。

「営業が全部覚える必要はない?」

「覚えられるなら覚えた方がいい。でも全部は無理です」

「外部デザイナーも?」

「同じ」

墨田は言った。

「デザイナーが製版も印刷も製本も全部知ってる必要なんかないんです。逆に印刷屋が全員デザインできる必要もない」

そして、玲子を見る。

「専門家が分かれてる意味は、分業するためでしょう」

「でも分業すると、間で落ちる」

ゆりが言う。

「だから話すんだよ」

墨田はゆりの二十六項目のチェックリストを持ち上げた。

「これを全部暗記させる前に、『ここで一回聞いていい』を伝えましょう。その方が、作る前に相談できます」

ゆりは紙の隅を押さえた。あの夜、眠い目で書いた字が並んでいる。全部覚えれば何とかなると思った。その紙を捨てられるのは、少しつらかった。

「二十六個、頑張って書いたのに」

「捨てるな。資料には使える」

「よかった」

「ただし講習の主役にはするな」

「じゃあ何が主役?」

墨田はホワイトボードに大きく書いた。

『分からないことを、黙って次へ渡さない。』

「これ」

ゆりは二十六項目の横に、細い縦線を引いた。空いた欄へ、最初に「相談する相手」と書く。確認するものは同じでも、使い方は変えられそうだった。

* * *

玲子は、その場で外部セミナーの開催を正式に決めた。墨田にも講師としての協力を改めて頼み、日程と担当範囲を相談することになった。

講師欄に、墨田一貴、赤坂ゆりと名前が並んだ。

ゆりが聞く。

「私、何します?」

墨田が言う。

「邪魔」

「講師です」

「じゃあ、俺の言い方がまずかったら直せ」

「やっぱり通訳じゃん」

「あと参加者が分かってなかったら止めろ」

「分かりました」

青原が手を挙げる。

「技術資料は私が作成します」

墨田が即答する。

「四十七ページはいらない」

青原が固まる。

「なぜページ数をご存じですか」

「見えた」

「情報を削ると精度が落ちます」

「全部入れると誰も読まない」

「しかし――」

ゆりが間に入る。

「青原さん。資料編で詳しい版を配りましょう。講義は簡単な方」

青原は少し考える。

「二層構造なら合理的です」

「決まりだな」

黄金井は印刷事故の実例を出す。茶屋は折り・断裁の見本を使った説明、緑野は営業相談の窓口について話す。

白石は、

「出らん」

と言った。

ゆりが頼む。

「白石さん、一言だけお願いします」

「嫌だ」

墨田が言う。

「画面と紙は見え方が違う、だけでもお願いできませんか」

白石が睨む。

「お前は好かん」

「知ってます」

準備の担当が決まると、椅子を引く音が重なった。青原は資料の表紙に付箋を貼り、茶屋は折り見本を選び直している。

ゆりは机に残った二十六項目を手帳に挟んだ。あの夜は、一人で埋めるつもりだった紙だった。今は、明日誰に声をかけるかが書いてある。

「墨田さん」

廊下へ出かけた背中が止まった。

「仕事のときは、そう呼ぶことにする」

「今さら?」

「講師ですから」

墨田は返事をせず、ノートを片手に持ち直した。ゆりも自分の手帳を抱え、緑野の机へ向かった。まず、案内を送る相手を相談しなくてはならなかった。

〜後編へ続く〜

Track 10 | Communication Breakdown ― 前編

KEYWORDS

プリフライト / 入稿 / 工程設計 / 情報共有 / 早期相談

TECHNICAL NOTES

入稿前の確認では、リンク画像、フォント、塗り足し、色、オーバープリント、画像解像度などをチェックします。プリフライトは、設定した条件に沿って問題の候補を拾う仕組みです。用途や加工方法、誰が最終確認するかまで自動で決めてくれるものではありません。

画像は配置後の実効解像度を確認し、用途、印刷方式、必要な品質と照合して判断します。本作の246ppiは、その条件で相談するための数字であり、一般的な合格基準ではありません。RGB画像も、受け取り側の入稿条件と色変換の担当・出力条件・確認方法を合わせて考えます。リンク切れなど修正が必要な不備と、条件次第で判断する項目を分けると、相手が対応しやすくなります。

小さい黒文字を複数の版(レジストレーションなど)で刷ると、見当のずれによって縁に色が出たり、読みにくくなったりすることがあります。修正依頼は対象の文字と理由を示して伝えます。また、巻き三つ折りの内側へ入る面幅や、製本に必要な時間は、用紙や加工条件に応じた確認が必要です。

チェックリストは共通の確認を支える道具です。未確定の事項を見える形にし、確認する相手と期限を決めて、結果を関係する工程へ戻すことで、会話を仕事の段取りへ反映できます。

※技術解説は物語中の状況を理解するための一般的な補足です。実際の条件や最適な設定は、印刷方式・用紙・設備・加工内容によって異なります。


現実の入稿データは、どこでつまずき、どうすれば防げるのか。印刷会社の内側の事情を、発注する側の目線でまとめた実用記事も書きました。

https://note.com/itta_m/n/ne0d23b9941f3

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